企画展『開館44年収集の軌跡Ⅱ 現代の作り手たち』
「現代の作り手たち」をテーマに当館の美術工芸コレクションが形成されてきた軌跡を振り返る。
会期:2023年09月09日~12月10日
2,000点を超える重要文化財の正体 かつての産業廃棄物は、今ではお宝に!
安土桃山時代から江戸時代初頭、茶の湯の流行を受けて当地で生産され、トレンド商品となった「美濃桃山陶(みのももやまとう)」。土岐市が所有する2,041 点もの重要文化財は、美濃桃山陶を中心とした一群で、すべて失敗品として廃棄された“ゴミ” だったものです。かつては無価値だったこれらが、400 年を経た現在では、美濃窯における茶陶生産のあり方を示す良好な資料として学術的価値が認められ、大切に保存されています。
-
元屋敷陶器窯跡出土品
16世紀後半~17世紀初頭 -
元屋敷陶器窯跡出土品
重要文化財2,431点の内訳 -
元屋敷陶器窯跡関連年表
1.ゴミだったものが重要文化財になるまで
出土地 元屋敷陶器窯跡の成り立ち -生産地の様子-
重要文化財の陶片の出土地「元屋敷陶器窯跡(もとやしきとうきかまあと)」は、安土桃山時代から江戸時代(16 世紀後半~ 17世紀初頭)に操業しました。その始まりは、瀬戸の陶工 加藤景光が長男景延ら4人の息子を連れて美濃に移住し、開窯したと伝わります。大窯3基(元屋敷東1~3号窯)、連房式登窯1基(元屋敷窯)からなり、「元屋敷窯(もとやしきがま)」は景延が九州の唐津まで出向いて築窯方法を学び、美濃で初めて築いた連房式登窯と伝わります。
-
国史跡 元屋敷陶器窯跡
土岐市泉町久尻
織部の里公園内 -
大窯模式図・連房式登窯模式図
大窯模式図:瀬戸市(1993)『瀬戸市史』陶磁史篇四p8に加筆修正
連房式登窯模式図:土岐市美濃陶磁歴史館(1987)『美濃窯の1300年-須恵器から磁器の発生まで-』p92に加筆修正
度重なる窯の改築と生産品の移り変わり
元屋敷陶器窯跡では、16 世紀後半の操業開始から17 世紀初頭の登窯築窯までの間に、大窯が4度改築されています。特に、元屋敷東1号窯は、同じ場所で2度の改築が行われました。当初は、天目茶碗・小皿・擂鉢といった、当時の美濃窯では一般的な製品の生産から始まります。茶の湯の流行により国産茶陶の需要が高まると、黄瀬戸(きぜと)・瀬戸黒(せとぐろ)・志野(しの)・織部(おりべ)といった茶陶 美濃桃山陶の生産へと本格的に移行していきました。
-
茶陶生産以前の生産品
元屋敷陶器窯跡出土 -
茶陶 美濃桃山陶
元屋敷陶器窯跡出土 -
美濃桃山陶の種類
生産された茶陶はどこへいくのか -消費地行きか物原行きか-
武士や商人の間で広まった茶の湯によって、需要の高まりとともに全国の窯場で生産された茶陶。美濃桃山陶を含む各地の産品は、大消費地京や堺など畿内の都市部へと集積しました。京都市では、三条通の瀬戸物問屋が立ち並んだとされる地点から、大量の桃山陶が出土し、当時の隆盛を伝えています。一方、焼成不良品などの売り物にならない製品は、窯の近くの物原(ものはら・ゴミ捨て場)へ廃棄されました。
-
消費地出土の美濃桃山陶
京都市
中之町遺跡出土(京都市蔵) -
生産地出土の美濃桃山陶
土岐市
元屋敷陶器窯跡出土(土岐市蔵) -
茶碗だけじゃない茶の湯の器
元屋敷窯では、茶碗、茶入、水指、天目台、蓋置、花入、向付、大鉢、徳利、小杯、水注、香炉、香合、灯明具、水滴といった様々な茶陶が生産されました。
流行の終焉と忘れ去られた生産地 -美濃桃山陶は瀬戸産?-
美濃桃山陶の生産終了後、茶人たちの手に残った優品は後世に伝えられたものの、その産地は瀬戸であると伝えられてきました。そんな中、昭和5年(1930)、荒川豊蔵(あらかわ とよぞう)が可児の古窯跡で志野の陶片を発見したことで、美濃桃山陶が瀬戸産ではなく、美濃産であることが明らかとなります。陶磁史を揺るがす大発見は、美濃古陶への世間の関心を高め、古窯発掘ブーム、そして古窯の乱掘・盗掘へと発展していきました。
地元の有志による文化財保護の動き -昭和の発掘-
昭和10 年(1935)、元屋敷窯開窯の祖 加藤景光・景延親子を陶祖として顕彰する「美濃陶祖奉賛会(みのとうそほうさんかい)」が地元製陶業者らによって発足しました。彼らは、陶祖の窯を盗掘から守るため、同24 年に発掘を行い、古陶器450 点と陶片類約2万点を地元に残しました。昭和42 年に元屋敷窯跡が国史跡に指定されると、「美濃陶祖古陶器保存会(みのとうそことうきほぞんかい)」と改称、44 年には古陶器収蔵庫を建設。46 年には、これらの出土品が県の重要文化財となりました。
-
美濃陶祖古陶器保存会による古陶器収蔵庫建設
昭和44年(1969)
元屋敷東1号窯跡の北側に建設されていた古陶器収蔵庫。美濃陶祖古陶器保存会の解散と史跡整備に伴い、この建物は現存しない。
広報とき488号より転載 -
美濃陶祖奉賛会による発掘品
その他の動き
元屋敷窯跡では、美濃陶祖奉賛会による発掘の他にも、地域の文化財保護を目的とした発掘が行われています。昭和6年(1931)に多治見工業学校(現岐阜県立多治見工業高等学校)教諭 高木康一(たかぎ やすかず)が、同8年(1933)には、県史跡名勝天然記念物調査員 小川栄一(おがわ えいいち)が発掘を行い、出土品とともに当時の状況を記録しています。
明らかとなった元屋敷陶器窯跡の全貌 -平成の発掘によって-
美濃陶祖奉賛会による発掘から遅れること44 年、行政(土岐市教育委員会)による発掘調査が行われたのは、平成5年(1993)のことでした。以降、同13 年(2001)まで6次にわたる発掘が行われました。これにより、竹林に覆われ不明瞭だった大窯3基(元屋敷東1~3号窯)の存在や改築の事実等が確認されます。出土した遺物の総合計は2,448 箱に上り、隆盛を極めた元屋敷陶器窯跡の全貌が明らかとなりました。
-
平成の行政発掘による出土品
-
各窯の操業時期と主な製品
-
登窯(左)と竹林に覆われた大窯(中央)と古陶器収蔵庫(右)
平成7年(1995)頃
大量の出土品を整理する -市による一括保管と重要文化財指定-
平成5年(1993)、美濃陶祖古陶器保存会が解散し、元屋敷窯の土地と所有する出土品全てが市に寄贈され、行政による発掘調査の契機となりました。土岐市では、市で発掘した2,448 箱分の出土品とともに、寄贈分の整理作業を実施。同14・15 年に報告書を発行し、広く公表されました。平成25 年(2013)には、学術的価値が認められ、市所有の2,041 点が「元屋敷陶器窯跡出土品」として国の重要文化財となりました。
-
整理作業の流れ
-
整理作業の流れ
注記・接合・実測・トレース
重要文化財のもう一つの側面 -多治見工業学校が発掘した390点-
平成25 年(2013)に重要文化財に指定された元屋敷窯関連資料は、市所有の2,041 点の他に390 点あります。これは、多治見工業学校の高木康一教諭が発掘したもので、岐阜県立多治見工業高校に残されました。高木教諭は、元屋敷窯の他にも多数の古窯調査を行っており、土岐市内で発掘した資料が平成15 年(2003)に市に寄託され、内390 点が「元屋敷陶器窯跡出土陶器」として国の重要文化財となりました。
安全な保管 -そして、広く活用していくために-
重要文化財に指定された資料は、個別に所在が確認できるよう所定の位置が決められ収蔵されています。収蔵庫自体の防犯・防災対策や温湿度の管理も必要です。そして、保存とともに重要なのが、広く活用していくことです。現在、データベースの閲覧や研究利用、自館や他館での展示等が主な活用方法ですが、創作や製品開発のヒントとして等、「学び」にとどまらない活用も期待できます。
-
安全な保管と活用
-
重要文化財の収蔵状況
掲載画像について
- 掲載画像は土岐市美濃陶磁歴史館で収集し、デジタル化を行ったものです。
- 撮影年代は、昭和30年代とみられます。
- 掲載写真の無断転載を禁じます。
- 画像利用を希望される場合は、土岐市美濃陶磁歴史館へご連絡ください。
掲載画像について
・掲載画像は土岐市美濃陶磁歴史館で収集し、デジタル化を行ったものです。
・掲載写真は全て杉浦磯雄氏により撮影されたものです。
・撮影年代は昭和30~40年代とみられますが定かではありません。情報をお持ちの方はご連絡ください。
・掲載写真の無断転載を禁じます。
・画像利用を希望される場合は、土岐市美濃陶磁歴史館へご連絡ください。
掲載画像について
・掲載画像は土岐市美濃陶磁歴史館で収集し、デジタル化を行ったものです。
・掲載写真は全て杉浦磯雄氏により、昭和34年(1959)9月に撮影されたものです。
・掲載写真の無断転載を禁じます。
・画像利用を希望される場合は、土岐市美濃陶磁歴史館へご連絡ください。
参考文献
・『1959 伊勢湾台風報告書』内閣府政策統括官 平成20年3月
・『土岐市広報 第160号』土岐市 昭和34年10月4日
陶祖祭
-
1 美濃陶祖祭
1960年代(昭和40年前後か) -
2 美濃陶祖祭
1960年代(昭和40年前後か) -
3 美濃陶祖祭
1960年代(昭和40年前後か)
陶祖を慰霊する二宮土岐市長 -
4 美濃陶祖祭
1960年代(昭和40年前後か)
土岐津中学校ブラスバンド部の演奏
美濃焼廉売市(陶器祭り)
-
5 美濃焼廉売市
1960年代(昭和40年前後か)
多くの人でにぎわう駅前通り -
6 美濃焼廉売市
1960年代(昭和40年前後か) -
7 美濃焼廉売市
1960年代(昭和40年前後か) -
8 美濃焼廉売市
1960年代(昭和40年前後か)
掲載画像について
・掲載画像は土岐市美濃陶磁歴史館で収集し、デジタル化を行ったものです。
・掲載写真は全て泉陶磁器工業協同組合提供によるものです。
・掲載写真の無断転載を禁じます。
・画像利用を希望される場合は、土岐市美濃陶磁歴史館へご連絡ください。
はじめに
シリーズ第1回のテーマである「美濃桃山陶」は、茶の湯が流行した安土桃山時代から江戸時代初頭(16世紀末~17世紀初)に美濃で生産された茶陶のことをいい、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部といった種類があります。当時、美濃桃山陶生産の中心となった窯の1つが土岐市にある国史跡「元屋敷陶器窯跡」です。この窯跡近くに建てられた当館では、元屋敷窯の出土品や伝世の美濃桃山陶を資料収集の中心に据えてきたことから、まずはこのコレクションを振り返ってみたいと思います。
本展のタイトルにある「〇△□」は、茶の湯の流行に伴い起きた器形の変化を表します。美濃桃山陶の誕生によって、ロクロ成形による正円形が基本だった陶器の形が変化していきます。作品を横からみたり、上からみたり、様々な視点で観てみたら、いったいどんな形がみえてくるのでしょうか?どうぞ、お楽しみください。
ロクロが生み出す形
古墳時代(5世紀)、朝鮮半島から日本へと陶器の製造技術が伝来します。そのとき、轆轤(ロクロ)による成形技術も伝わりました。以後、現在まで、手動か電動かといった動力の変化はあれど、ロクロを用いた成形は陶磁器製造の基本となっています。
陶土を置いた円盤を回転させることによって生み出される器形は正円形であり、ロクロは均質な形状を量産することに適した技術です。
-
1 ロクロ成形された美濃焼
美濃焼は、飛鳥時代(7世紀)の須恵器の生産に始まります。以後、平安時代の灰釉陶器、鎌倉~室町時代の山茶碗、室町~安土桃山時代の大窯製品(施釉陶器)と、時代により生産品を変えながら現在に至るまで生産が続いてきました。ロクロによる成形技術は、美濃へ須恵器の製造技術が伝わった際にもたらされました。
茶の湯の格式 唐物の形
粉末にした抹茶を飲む「点茶法」は、鎌倉時代初頭(12世紀)に中国・宋より禅宗とともに伝来し、禅宗寺院から貴族や武士階層へと広まり、室町時代(14世紀)には「茶の湯」の形式が確立しました。この時期の茶の湯は、「会所」という空間を中国製の茶道具「唐物」で豪華に飾り付けるものでした。茶陶でも天目茶碗や青磁碗などの唐物が第一とされ、厳かで均整のとれた美の世界が評価されました。
-
2 灰被天目茶碗
中国・宋~元(14~15世紀)
室町時代の唐物の茶道具の評価では、天目茶碗のうち第一は曜変天目、次は油滴天目…といった順番で格付けがされていました。釉が灰を被ったような色をしていることから名付けられた灰被天目は、当初は低く格付けられていましたが、「わび茶」の芽生えにより、評価されるようになります。
〇に始まる美濃桃山陶
15世紀末頃、唐物で荘厳に飾る「茶の湯」とは一線を画し、より簡素な美を好む「わび茶」が生まれ、安土桃山時代(16世紀末)に千利休によって大成されます。四畳半の「草庵茶室」で茶をたて客をもてなす、現代の私たちがイメージする茶の湯の形式はこのときに成立したものです。「わび茶」の流行を受け、美濃でも唐物にはなかった形や色彩の茶陶が生まれました。黄瀬戸や瀬戸黒など、「美濃桃山陶」と呼ばれる和物茶陶の誕生です。
-
3 黄瀬戸茶碗 銘春曙
安土桃山時代(16世紀末)
黄瀬戸は灰釉を意識的に黄色く発色させたやきもので、形はゆがみのない端正な造りです。刻線文や印花で文様が施され、黄色をベースとしてアクセントで緑彩(胆礬)や鉄彩を装飾した色彩に特徴があります。器種は向付や鉢などの食器、花入、水指などで、本作も向付だったものが、後に茶碗に見立てられました。 -
4 灰志野大鉢
安土桃山時代(16世紀末)
灰志野は、長石に灰を含む釉薬が施されたやきもので、青白い発色が特徴です。長石釉が施される志野に先行して、筆による鉄絵も始まります。端正な器形は黄瀬戸と共通し、ロクロ成形を基本とする正円形に加え、型を用いた四角形の向付などもつくられました。
変化は□から、
黄瀬戸と瀬戸黒に始まる美濃の和物茶陶の生産は、つづく志野の登場により本格化します。当初、器形はロクロ成形による正円形を基本としつつも、黄瀬戸の黄・緑・茶色、瀬戸黒茶碗の筒形など、それまでになかった独自の色彩や形の表現が生まれました。加えて、ロクロ成形後に手で変形させたり、型に打ち込んだりして成形する技法が現れ、四角形や五角形など、円形ではない器形が現れます。形の変化は、志野の段階でより多様になっていきます。
-
5-1 黄瀬戸小杯
元屋敷東窯
安土桃山時代(16世紀末)
重要文化財 -
5-2 黄瀬戸小杯
上から -
6 志野端反皿
元屋敷東窯
安土桃山~江戸時代(16世紀末~17世紀初)重要文化財
志野のモデルは、中国産の白磁や青花(染付)にあるといわれ、陶土に長石釉を施すことによって、それまでの国産陶器にはなかった白色のやきものが生み出されました。硬質な中国陶磁と異なり、やわらかな白色が志野の特徴です。志野の端反皿や輪花皿(麒麟の図)も、中国陶磁をモデルとしたものです。 -
7 志野輪花皿
元屋敷東窯
安土桃山~江戸時代(16世紀末~17世紀初) -
8 志野向付
元屋敷東3号窯
安土桃山~江戸時代(16世紀末~17世紀初)
重要文化財
美濃で本格的な和物の茶陶生産が始まるのが、志野の段階です。茶陶としての志野は、中国陶磁の写しから離れ、独自の造形へと変化を遂げていきます。当初、器形はロクロ成形した素地を手でゆがめたり、型を用いたりして単純な四角形へと変形させる程度でしたが、形はしだいに多様になっていきます。 -
9 志野向付
安土桃山~江戸時代(16世紀末~17世紀初) -
10 志野向付
安土桃山~江戸時代(16世紀末~17世紀初) -
11 志野茶碗
安土桃山~江戸時代(16世紀末~17世紀初)
多彩な鉄絵も志野の特徴の一つです。志野の茶碗には抽象的な文様が、向付や鉢などの懐石用食器には草花など具象的な文様が描かれることが多いようです。この茶碗の外面には、花、渦巻、源氏香、桧垣など、日本古来からの文様が鉄絵で描かれます。 -
12 志野向付
元屋敷東窯
安土桃山~江戸時代(16世紀末~17世紀初)
重要文化財 -
13 鼠志野額鉢
安土桃山~江戸時代(16世紀末~17世紀初)
鼠志野は、白土の素地の上から鉄化粧を施し、文様を掻き落とした後に長石釉をかけて焼成したものです。鉄化粧の部分が鼠色に、掻き落とした文様が白く発色し、白地に黒い絵の志野とは配色が反転します。本作は、型打ちによって長方形に整えられた鉢で、掻き落としで網干に千鳥という浜辺の情景が描かれます。 -
14 志野大鉢
元屋敷東窯
安土桃山~江戸時代(16世紀末~17世紀初)
重要文化財
これは、△?
江戸時代初頭(17世紀初)、黄瀬戸、瀬戸黒、志野によって培われた技術を集大成して生まれた美濃桃山陶が「織部」です。
戦国から江戸時代へと移り変わる動乱期の世相や海外から流入する新しい文化などをその意匠に取り込んだ「織部」は、極端なまでの歪みと色彩を特徴とするやきものです。ロクロ成形後、手でぐにゃりと歪めた茶碗や水指の形は、それまでの正円形を基本としていた器の概念とは、全く異なるものでした。
-
15-1 美濃伊賀水指
江戸時代(17世紀初)
大鹿コレクション -
15-2 美濃伊賀水指
上から
美濃伊賀は、美濃で生産された伊賀風のやきもので、織部の一種に数えられます。全体に灰釉を薄く施し、その上に長石釉や鉄釉を流し掛けることで、伊賀焼のゴツゴツした質感を表現しています。本作は、ロクロ成形後に胴上部をゆがめて整えた結果、口が三角形になっています。口づくりに合わせ、漆器の蓋も三角形に形造られました。
茶碗の形の変化
瀬戸黒から織部黒へ
瀬戸黒の漆黒色は、鉄釉を焼成中に引き出し急冷させることで生まれます。続く、織部黒の色も同じ技法によります。初期の瀬戸黒茶碗は腰の丸い半筒形ですが、しだいに器高は低く、外面にはヘラ削りを施したりロクロ目を強調するなど造形に作為が加えられるようになります。次の織部黒になると、造形はさらに作為的になります。極端なまでにゆがみを加えた沓形茶碗へと変化していきます。
-
16 瀬戸黒茶碗
安土桃山時代(16世紀末) -
17 織部黒茶碗
元屋敷東窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財 -
18 織部黒茶碗
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財 -
19 黒織部茶碗
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財
志野から志野織部へ
長石釉を施し大窯で焼成したものを「志野」、志野と同じ技法を用いて連房式登窯で焼成したものを「志野織部」と呼びます。志野より志野織部が後出のもので、茶碗の形は、瀬戸黒から織部黒へ至るのと同様の変化をたどります。また、志野では白濁していた長石釉が、志野織部では透明になるため、下に描かれた鉄絵がくっきりと見えます。
-
20 志野茶碗
元屋敷東窯
安土桃山~江戸時代(16世紀末~17世紀初)
重要文化財 -
21 志野茶碗
元屋敷東窯
安土桃山~江戸時代(16世紀末~17世紀初)
重要文化財 -
22 志野茶碗
安土桃山~江戸時代(16世紀末~17世紀初)
大鹿コレクション -
23 志野織部茶碗
江戸時代(17世紀初)
ゆがめた形、ゆがんだ形
-
24 美濃伊賀水指
江戸時代(17世紀初)
織部は成形時に意図的にゆがめることで生み出された造形ですが、焼成中の窯の中で、意図せずひしゃげてしまう製品も多くありました。その当時は焼け損じとして窯の周囲に打ち捨てられ、やがて地中に埋もれていきました。ところが、昭和時代の発掘ブームの頃に掘り出されて、このゆがみが評価され、茶道具として使用されることがありました。本作も元屋敷窯からの発掘品と伝わります。 -
25 美濃伊賀花入
江戸時代(17世紀初)
大鹿コレクション
頸部を絞って口縁の形を「柑子口」に整えた花入です。口縁部は、織部茶碗と同様に沓形にゆがめてつくられていますが、片側にかしげているのは意図したものか、あるいは意図せずなのかは判然としません。どことなくユーモラスな雰囲気が好まれたのか、茶道具として用いられ伝世してきた作品です。 -
26 織部茶入
江戸時代(17世紀初)
鉄分の多い褐色の胎土に鉄釉が掛けられた本作は、御殿窯の特徴を示しています。御殿窯は、江戸時代初頭に妻木(現土岐市妻木町)を本拠としていた妻木氏御殿のすぐ脇に築かれた窯です。全体にゆがんで傾いた姿は焼成中に変形したもので、おそらく窯跡から掘り出され、茶道具として使用されてきたものでしょう。
そして生まれた、たくさんの形
黄瀬戸の頃に登場した型を用いた成形技法は、織部でよりいっそう盛んになります。なかでも型打ちによって生み出された織部向付の形は、扇形、木瓜形、千鳥形などと、数えきれないほどの種類がありました。
織部の流行が過ぎ、次に美濃で登場する御深井釉製品は、織部とはがらりと印象が変わり、動植物などの具象的な形状が型で表現されるようになります。
-
27 型が生み出す形
-
28 青織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初) -
29 青織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財 -
30 青織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財 -
31 鳴海織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財 -
32 青織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初) -
33 鳴海織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財 -
34 志野織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財 -
-
-
-
-
35 青織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財 -
36 鳴海織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財 -
37 鳴海織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初) -
38 志野織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財 -
39 御深井釉大鉢
江戸時代(17世紀前半)
灰釉を還元焼成した御深井釉製品は、中国の青磁をモデルにしたものもみられ、美濃桃山陶以前の静謐な美の世界への評価が戻ってきたかのようです。型による造形も草花などを精巧に象ったものが特徴です。 -
40 御深井釉算木手花入
江戸時代(17世紀前半)
御深井釉が淡い青緑色に発色した本作は、中国青磁の写しとしてつくられた花入です。表面の文様が占いや計算に用いる道具「算木」に似ていることから「算木手」と呼ばれます。 -
41 御深井釉立鼓花入
江戸時代(17世紀前半)
これは、何の形?
-
42 青織部向付
窯ヶ根窯
江戸時代(17世紀初)
江戸時代初頭、南蛮貿易が盛んとなり、西洋の文化が流入してきました。織部のデザインには、そうした新しい文化を取り入れたものがみられ、こうした台付向付はガラスや錫製の台付杯の影響が考えられます。 -
43 青織部天目台
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財
天目台は、天目茶碗をのせるための台です。漆器が一般的ですが、黄瀬戸や織部の時代には陶製天目台がつくられました。側面に山水文が描かれた青織部天目台は、とても華やかな印象です。 -
44 弥七田織部向付
江戸時代(17世紀初)
弥七田織部は、大萱(可児市)の弥七田窯で焼かれたもので、銅緑釉の流し掛けや「赤楽」というピンク色の顔料などを特徴とし、垢ぬけた印象の織部です。本作は平安貴族が恋文を認め結んだ「結び文」を象った向付です。
【凡例】
- このページは、土岐市美濃陶磁歴史館企画展『開館44年収集の軌跡Ⅰ 〇△□ 美濃桃山陶の形展』のバーチャル展覧会である。
- 会期:2023年6月10日~9月23日
- 展示作品は全て土岐市美濃陶磁歴史館所蔵品である。
- 各作品写真のキャプションは、作品名、窯名、制作年代、文化財指定の順に明記した。
- 掲載資料は必ずしも展示の順序と一致しない。また、展示しているが掲載しない資料がある。
- 解説文は当館学芸員の春日美海が執筆した。
- 掲載写真の無断転載を禁ずる。
はじめに
当館の美術工芸コレクションは、初代土岐市長二宮安徳が収集した二宮コレクションを礎に、土岐市政のあゆみと深く関わり合いながら蓄積されてきた。陶彫展や現代茶陶展といった土岐市主催の公募展や姉妹都市イタリアファエンツァとの関わりからは、土岐市がやきもののまちとして産業的側面に捉われず、文化芸術振興に目を向けてきたことがうかがえる。他方、美濃桃山陶生産の中心地としての歴史を背景に、茶陶制作に取り組む市内外の作家作品の収集も積極的に行ってきた。
本展では、この地と関わり、土の可能性を探り、形にしてきた現代の作り手たちの作品を展観する。
1.美術工芸コレクションの礎 二宮コレクション
二宮コレクションは初代土岐市長 二宮安徳(にのみや やすのり・在職1955-75)が収集した400点を超えるコレクションである。これらの作品は、美濃の陶芸家のほか岐阜県出身の画家、民藝作家など様々な作り手たちとの交友をもとに収集された。退官を控えた1973年(昭和48年)、「文化不毛の地であってはならない」という言葉とともに、市民の芸術振興のため、市に一括寄贈された。
-
出光美術館にて
1967年
左から小山冨士夫、濱田庄司、二宮安徳 -
種子島茶碗
小山冨士夫
1973年
陶磁研究家であり陶芸家でもあった小山は、土岐市駄知町の陶芸家塚本快示(つかもと かいじ)を介して二宮と交流を持った。二宮が自身の政策の集大成として打ち出した美濃陶芸村構想に賛同し、1972年(昭和47年)、土岐市五斗蒔に花の木窯を築窯。翌年、住居が完成すると土岐市に移住し、亡くなるまでの3年間で試験焼成を含め計4回、花の木窯で作品を焼成した。 -
白釉黒格子掛大鉢
濱田庄司
1955-75年
栃木県益子で活動した濱田は、民藝運動を牽引した作り手の一人である。1966年から1973年にかけて(昭和41~48年)、4度にわたり土岐市の二宮のもとを訪れている。二宮の美濃陶芸村構想には濱田も興味を示し、3度目の訪問時には現地視察を行ったが、実現には至らなかった。 -
閑徹
棟方志功
2.収集2つの視点 寄贈と購入
博物館が資料を収集する手段は、大きく二通りある。館の理念に沿って、「館独自の予算をもとに購入する」こと、「市民から寄贈を受ける」ことで、収蔵品の充実を図っていく。当館は土岐市唯一の公的な博物館として、この地の歴史を紡いでいく使命がある。美術的に評価されたものから、地域資料として地元で大事に残すべきものまで、様々な性質の資料を収集し、後世につないでいく。
-
手捻ウラン黒釉茶碗
土岐窯(土岐市陶磁器試験場)
1958- 年
核原料物質として知られるウランだが、陶磁器生産の現場では呈色剤として、20世紀中頃まで国内外で使用された。1962年(昭和37年)、土岐市でウラン鉱床が発見されると、有力な資源となり得るか調査が進められた。本作はウラン鉱床発見の記念として、土岐市で採取されたウランを用いて土岐市陶磁器試験場で作られ、関係者に配られた。 -
少女図鉢
小谷陶磁器研究所
1951-58年
小谷陶磁器研究所は1952年(昭和27年)、下石町で製陶業を営む安藤知山(あんどう ちざん)と陶磁器デザイナーの日根野作三(ひねの さくぞう)によって設立。昭和30年代以降この地で盛り上がったクラフトのムーブメントの中心地だった。2021年度の特別展で取り上げたことで、関連する資料の寄贈や情報提供が進んでいる。 -
萌黄金襴手草花文水指
加藤幸兵衛(五代)
当館がこれまで重点を置いて収集してきたのは、美濃焼の歴史を物語る資料である。中でも資料購入によって収集した陶磁資料は多岐にわたり、江戸時代以前につくられた古陶磁や近現代の量産品、当地で活動する陶芸家の作品など様々である。収集した資料からは、様々な作り手が試行錯誤し、美濃焼の歴史を形づくってきたことがうかがえる。
3.イタリア ファエンツァとの交流
1979年(昭和54年)、土岐市はイタリアのファエンツァ市と姉妹都市となった。以来、使節団の相互派遣などを通して、歴史ある陶磁器産地同士の絆を深めてきた。当館には、交流のきっかけとなった人物でイタリア現代陶芸の巨匠カルロ・ザウリの作品を30点収蔵している。1992年(平成4年)には、同市の陶芸家ジョバンニ・チマッティが土岐市に滞在し、セラテクノ土岐での制作品を当地に残した。
-
ファエンツァ市・土岐市での姉妹都市盟約式
1979年 -
垂直の核
カルロ・ザウリ
1976年 -
EMBRIONE(胚珠)
ジョバンニ・チマッティ
1992年
4.文化芸術を育む
公募展の開催
土岐市では、陶磁器産地ならではの公募展をいくつも開催してきた。1986年(昭和61年)に始まった「日本現代陶彫展」、そこから派生した「ユーモア陶彫展」がその先駆けである。陶磁による彫刻=陶彫(とうちょう)をテーマに、まちに溶け込むパブリックアートとして土の可能性を追求したものだった。2006年の開催が最後となったが、市中に展示された作品を今でも楽しむことができる。
-
土岐市初の陶彫展「第1回土岐市陶彫展」
1986年 -
問自考
柴田節郎
第1回ユーモア陶彫展優秀賞
1997年 -
家-人
伊藤慶二
第1回ユーモア陶彫展奨励賞
1997年
土岐市織部の日と茶陶
1989年(平成元年)には、土岐市織部の日が制定された。これは、織部焼の文献上の初見とされる慶長4年(1599)2月28日に由来している。以来、記念事業として「織部の心作陶展」や「現代茶陶展」といった織部焼のような革新性を問う公募展が始まった。特に現代茶陶展は、茶の湯の器をテーマとした全国規模の公募展として、現在でも多くの作り手の登竜門となっている。
-
第1回現代茶陶展審査風景
1995年 -
銀彩花入
岩佐昌昭
第14回現代茶陶展大賞
2022年 -
七彩茶入
アーグネス・フス
第14回現代茶陶展奨励賞
2022年
織部茶会
土岐市織部の日が制定されたことで、土岐市の様々な行事で茶会が盛んに行われるようになった。2002年(平成14年)には、織部の日記念事業で織部大茶会が開かれ、市内外の作り手たちが制作した茶碗で茶が供された。茶陶に挑む作り手や茶の湯に親しむ機会が多いのは、茶陶「美濃桃山陶」の生産地としての歴史を持つ当市ならではの文化といえる。
-
青白磁輪花茶碗
塚本快示
1983年 -
晒地鶴絵茶盌
中島正雄 -
赤志野茶盌
林正太郎
2002年
5.近年の収集作品 2022年度新収蔵品
2022年度は、資料購入や市民からの寄贈により、計96点の現代作家作品が新収蔵となった。特に市民からの声は、当地の歴史の一端を後世に残す貴重な手がかりとなる。提供された資料や情報によって、新たな事実が判明したり、これまで蓄積した情報をより精彩に捉えることができたりすることで、当地の歴史を紐解いていく一助となる。
-
エマイユ額
中上良子
中上良子(なかがみ よしこ)は土岐市下石町を活動拠点とし、陶磁器デザイナー、エマイユ(七宝)作家として活躍した。女性が表舞台に立つことの少なかった戦後の美濃窯業界において、突出した才能を発揮し、美濃のクラフトのムーブメントにも加わった。2022年度に初の回顧展を開催したことで、市民からの作品寄贈や情報提供が進み、中上の制作活動の様子が明らかとなりつつある。 -
鳥獣戯画花瓶
中島正雄
中島正雄(なかしま まさお)は土岐市下石町で製陶業を営み、量産品だけでなく自身の作品制作も行った。青磁、高麗青磁の技法で土岐市無形文化財に指定された。伝統的な技法を追求する一方で、美濃クラフトのムーブメントの中心的人物としての側面もあった。これらの作品は、中島の作品を愛したコレクターからの寄贈により収蔵した。作り手を支える収集家の存在もまた、当地の歴史の一端を担っているといえる。 -
銀彩点紋鉢
伊藤慶二
1968年
伊藤慶二(いとう けいじ)は、日根野作三に薫陶をうけた作り手の一人である。本作は、日根野が30年にわたる自身の指導をまとめた著書『20cy後半の日本陶磁器クラフトデザインの記録』に掲載された作品の類似作である。日根野と美濃のクラフトの関係を象徴する作品の一つといえる。作家本人からの寄贈により、作品とともに当時の貴重な証言も記録することができた。 -
楽
日根野作三
1955-64年
日根野作三(ひねの さくぞう)は、陶磁器デザイナーとして全国の窯業地を指導して回り、美濃にクラフトのムーブメントを巻き起こした。ひと月の20日以上を指導先で過ごした一方、束の間の余暇として、三重県伊賀の自宅で楽焼の制作を楽しんだ。生涯をかけて陶磁器産業の発展に尽力した日根野の、純粋な個としての側面を垣間見ることができる作品である。
はじめに
土岐市泉町久尻に所在する飛鳥時代(7世紀前半)に造られた乙塚古墳と段尻巻古墳は、ヤマト王権による東美濃地方の支配の様子を考える上でとても重要な遺跡であることから昭和13年(1938)年12月14日に国指定史跡となりました。
土岐市では、両古墳を東美濃地域のみならず日本の宝として未来に向けて守っていくために令和元年度より史跡整備事業を進めてまいりました。その整備事業完了を記念し、本展では両古墳だけでなく、周辺の遺跡からの出土品や発掘調査の写真なども交えながら、乙塚古墳とその時代についてわかりやすくご紹介いたします。
土岐の領域と古墳の分布
乙塚古墳と段尻巻古墳が造られた飛鳥時代(7世紀前半)は、ヤマト王権によって各地方の領域再編が進み、律令国家へとつながる基礎が築かれた時代でした。東美濃地方には乙塚古墳の被葬者が治めた領域(後の刀支評・土岐郡)があったと考えられています。当時の領域名は不詳のため仮に【トキの領域】と名付けますが、その範囲は現在の多治見市(土岐川以南)、土岐市、瑞浪市に加え、恵那市と中津川市の大部分を包括する広大な領域でした。
- 6~7世紀の古墳分布と地区の検討
古墳分布から推測される領域内の各地区は、後に成立する行政区であるサト(五十戸/里/郷)の前身になったと考えられます。試みに平安時代に書かれた「倭名類聚抄」等から知られている土岐・恵那郡の郷名を当てはめてみると、概ね合致することがわかります。
-
トキの領域と古墳の分布
古墳時代のトキの領域
古墳時代(3世紀中~6世紀後)のトキの領域の様子は、発掘調査事例も少なくよくわかっていませんが、開発が遅れ地域一帯を支配する豪族もいない辺地だったとされています。古墳時代中期(5世紀)頃になると、戸狩荒神塚古墳(瑞浪市)が築かれ、一時的にある程度の力を持つ豪族もいたようですが、東美濃一帯は長らく可児の豪族の支配下にあったと考えられています。6世紀に入ると徐々に古墳が築かれるようになり、7世紀に入ると乙塚古墳が築かれます。乙塚古墳は首長墳と判断できる大型方墳のため、飛鳥時代に可児から分立し、トキの領域ができあがったと考えられます。
- 土師器の出土状況(上林遺跡)
土師器の多くは竪穴住居址の北東隅付近から出土しました。土師器周辺からは多量の炭化物も検出されていることから、火を用いる儀式に使用し、埋納されたと考えられます。その後、さらにS字甕を破砕する儀式が行われました。これらの一連の儀式は、おそらく住居の廃棄に関連する儀礼だったと考えられます。 - 焼かれた住居の持つ意味(妻木平遺跡)
土師器高坏は、食べ物を盛る器として用いた土器です。この高坏が出土した住居では、炭化した木材が多く確認されており、焼失した住居だったことがわかります。炭化材は、その位置や方向から壁材、および屋根を支える垂木であった可能性が考えられています。住居内からは、この土器以外のものがほとんど出土していないため、住居を廃棄する時に行う儀礼行為の一環として意図的に火を付けたと考えられます。なぜこの土器だけが残されたのかは不明です。
-
年表
-
集落の様子
復元住居
喜多町西遺跡
多治見市 -
住居址
上林遺跡
古墳時代前期(4世紀) -
土師器出土状況
上林遺跡
住居址内出土
古墳時代前期(4世紀) -
土師器:S字甕・く字甕
上林遺跡
住居址内出土
古墳時代前期(4世紀) -
土師器:器台・壺・鉢
上林遺跡
住居址内出土
古墳時代前期(4世紀) -
焼失住居址
妻木平遺跡
古墳時代前期(4世紀) -
土師器:高坏
妻木平遺跡
焼失住居址内出土
古墳時代前期(4世紀)
失われた古墳
古墳時代後期から飛鳥時代(6~7世紀)にかけて、トキの領域内でも古墳が爆発的に築かれるようになります。その総数は500基程度とされていますが、開発などにより失われ記録に残らなかった古墳も多々あると考えられるため、実際はもう少し多かったはずです。妻木平遺跡で見つかったSZ001(固有名なし)も全く知られていなかった古墳の一つです。トキの領域内には古墳が確認されていない地域も多くありますが、そういった地域でもまだ見つかる可能性があるのです。また、しっかりとした発掘調査が行われた古墳数もとても少ないため、今後の調査の進展が期待されます。
-
古墳:SZ001
妻木平遺跡
飛鳥時代(7世紀) -
石室側壁・礫床石材
古墳:SZ001
妻木平遺跡
飛鳥時代(7世紀)
花崗岩 -
須恵器:平瓶
古墳:SZ001
妻木平遺跡
飛鳥時代(7世紀)
土岐市内最古の古墳
熊野神社3号墳は、古墳時代後期(6世紀前半)に築造された土岐市内最古の古墳(円墳)で、横穴式石室を持つ古墳としては東美濃地域最古でもあります。石室の形態は古いものの、採集された遺物は6世紀中頃から7世紀中頃のため、複数回の追葬があったと考えられています。トキの領域内における古墳時代後期(6世紀前~末)頃の古墳はおよそ20基と少なく、残りの480基あまりは飛鳥時代(7世紀前~中)の古墳です。この爆発的な古墳の増加は、新たな国家体制と身分秩序の浸透、そして仏教思想の影響による家族を重視した古墳祭祀の普及を示していると考えられています。
- 土師器と須恵器の違い
【土師器】
弥生土器の系譜を受け継ぐ赤褐色の土器です。野焼き(焼成温
度800~900度)で焼成されたためやや軟質でした。
【須恵器】
5世紀に朝鮮半島から制作技術が伝わった青灰色の陶質土器で
す。窯(焼成温度1100度以上)で焼成されたため硬質でした。
-
熊野神社3号墳
古墳時代後期~飛鳥時代
(6世紀~7世紀) -
須恵器出土状況
熊野神社3号墳 -
須恵器:
熊野神社2号墳
古墳時代後期~飛鳥時代
(6世紀中~7世紀中) -
須恵器:長頸瓶
熊野神社3号墳
飛鳥時代
(7世紀) -
須恵器:高坏・坏身
熊野神社3号墳
飛鳥時代
(7世紀) -
土師器:甕
熊野神社3号墳
飛鳥時代
(7世紀)
段尻巻古墳
段尻巻古墳は、乙塚古墳と同時期の円墳です。市内の他の同時期の円墳と比べても大きく、乙塚古墳に埋葬された豪族と関わりが深い有力者一族の墓に相応しいものです。石室内は部分的な発掘しか行われていないため、見つかっている副葬品は須恵器と土師器のみです。なお、乙塚古墳ではほぼ失われていた石室の礫床が、とても良好な状態で残っていました。
【墳丘の特徴】
円墳:直径23.9m、残存高4.1m
段築なし、葺石なし、周溝なし
【横穴式石室の特徴】
全長9.5m、疑似両袖式、玄門立柱石、まぐさ石
礫床、石材は主に花崗岩
- 土師器長頸壺
石室内の玄門付近から出土しました。とても丁寧に精製された粘土を用いており、表面も綺麗に整えられているため、入念に仕上げられたことがわかります。このような土師器の長頸壺は、近畿地方の古墳や集落遺跡での出土が知られていますが、岐阜県内では類例がなく、とても珍しい発見といえます。被葬者と近畿地方との強い関係性がうかがえる遺物です。
-
発掘前の状況
-
発掘後の状況
-
割れた天井石
-
石室の礫床
-
石室内(整備後)
-
墳丘(整備後)
-
須恵器:フラスコ形瓶
飛鳥時代(7世紀前) -
土師器:長頸壺
飛鳥時代(7世紀前) -
土師器:長頸壺
飛鳥時代(7世紀前)
乙塚古墳
乙塚古墳は、7世紀前半の大型方墳です。当時の大型方墳は、ヤマト王権と親しい地域の豪族に採用された特別な墓でした。乙塚古墳では墳丘の段築や葺石を省略する一方で、美濃国内の他の大型方墳と比べても同等以上の巨大な石室が造られています。石室内の再利用により副葬品はほぼ失われていましたが、土師器と須恵器の他、鉄製品片がわずかに見つかっています。
【墳丘の特徴】
方墳:南北27.4m、東西26.1m、残存高5.8m
段築なし、葺石なし、周溝なし
【横穴式石室の特徴】 全長19.2m(美濃地方最大級)
両袖式、胴張、玄門立柱石、まぐさ石
礫床、排水溝、石材は主に花崗岩
- 石室の再利用
乙塚古墳の石室は、古墳の祭祀が絶えた後、中世に差し掛かるまでは特に再利用されることはなく、平安時代末期から南北朝時代にかけて一時的に居住するといった短期的な利用があったようです。その後、安土桃山時代から江戸時代にかけて陶工たちが工房として利用し、工房としての利用が終わった後は、窯業に関連した信仰の場として現在に至るまで利用されてきました。 - 焼成不良の須恵器
乙塚古墳から出土した須恵器の中には焼成不良品がいくつも含まれています。一例として、比較的残りの良い高坏を展示しました。この高坏ほどではありませんが、実は鳥鈕蓋もやや焼成不良といえます。これらの製品は、猿投窯や美濃須衛窯といった近隣の大規模窯業地の製品ではありません。乙塚古墳近隣にある隠居山須恵器窯、清安寺須恵器窯など、在地産の可能性が考えられます。 - 鳥鈕蓋
鳥の形をした鈕が付いた蓋で、脚付短頸壺などの蓋として用いられました。鳥の種類は不明ですが、死者の旅立ちを鳥に託したものと考えられており、葬送儀礼のために特別に作られたものでした。乙塚古墳を含む24遺跡で発見されていますが、東海地方以外での出土は知られていません。全て合わせても38点しか見つかっておらず、とても希少な須恵器といえます。
-
発掘前の状況
-
発掘後の状況
-
須恵器出土状況
-
玄室の礫床
-
石室入口(整備後)
-
石室内(整備後)
-
墳丘(整備後)
-
施釉陶器
安土桃山時代~江戸時代
(16世紀末~19世紀前)
施釉陶器:志野丸皿、御深井釉摺絵皿、御深井釉輪禿鉢、広東碗、腰錆茶碗 -
山茶碗
鎌倉時代(13世紀前~中) -
須恵器:横瓶か・甕
飛鳥時代(7世紀前半) -
鏃・銙板・馬具
鉄製
飛鳥時代(7世紀前) -
土師器と須恵器
飛鳥時代(7世紀前) -
焼成不良の須恵器
高坏
飛鳥時代(7世紀前) -
鳥鈕蓋の蓋部分か
飛鳥時代(7世紀前) -
鳥鈕蓋
飛鳥時代(7世紀前) -
鳥鈕蓋
飛鳥時代(7世紀前) -
鳥鈕蓋の鳥
飛鳥時代(7世紀前)
大型方墳の持つ意味
飛鳥時代(7世紀)の大型方墳は、ヤマト王権と親密な関係を持ち広域を治めた豪族が採用した特別な墓です。大型方墳の存在は広域を治めた豪族がいたことを意味し、その分布状況から当時の行政区域を推測することができます。当時の美濃国には、次の7つの領域があったと考えられています。
- フワ(多芸郡、不破郡、安八郡)
- モトス(大野郡、本巣郡、方県郡)
- ムギ(山県郡、武芸郡)
- カカミ(各務郡、厚見郡)
- カモ(賀茂郡)
- カニ(可児郡)
- トキ(土岐郡、恵奈郡)
-
飛鳥時代の7つの領域
土岐市内の古墳
土岐市内には、90基ほどの古墳が存在したことが知られています。それらは全て古墳時代後期から飛鳥時代(6世紀~7世紀)のものと考えられます。大半は円墳で、方墳はその可能性があるものを含めても4基ほどです。現在まで残っている古墳はおよそ40基しかなく、半数は既に宅地開発などにより失われています。学術的な発掘調査が行われた古墳は乙塚古墳、段尻巻古墳、妻木平遺跡SZ001などわずかですが、過去にいくつかの古墳から須恵器が採集されています。勾玉や直刀などの副葬品や人骨が見つかったという話も伝わりますが、モノの行方は不明というのが現状です。
- 細野の飛鷹
土岐市鶴里町細野にある堀切古墳からは、乙塚古墳の鳥とは異なる鳥が付けられた鳥鈕蓋が出土しています。この鳥は、鷹狩に用いた鷹の飛翔する姿と考えられており、鷹の鳥鈕蓋は堀切古墳のものを含めても4点しかありません。鷹狩の鷹を模していることから、堀切古墳の主も鷹狩に関係した人物だった可能性があります。飛鳥時代の細野は鷹の舞い飛ぶ里だったのかもしれません。
-
須恵器:鳥鈕蓋(鷹)
堀切古墳
飛鳥時代(7世紀前~中) -
須恵器:脚付短頸壺
堀切古墳
飛鳥時代(7世紀前~中) -
須恵器:坏蓋と身
堀切古墳
飛鳥時代(7世紀前~中) -
須恵器:短頸壺・高坏・台付碗
堀切古墳
飛鳥時代(7世紀前~中) -
須恵器:台付短頸壺
森下古墳
飛鳥時代(7世紀中) -
須恵器:坏蓋と身・平瓶
森下古墳
飛鳥時代(7世紀中)
古墳の副葬品
古墳の副葬品には、勾玉・管玉・臼玉・小玉・切子玉などの玉類、耳環(金・銀・銅を用いたイヤリング)、武具(弓矢、剣、甲冑など)、馬具、刀子、銅鏡など様々なものがあり、須恵器や土師器も多く副葬されました。乙塚古墳の副葬品は石室が後に再利用された影響によりほぼ失われており、段尻巻古墳も土師器と須恵器がごくわずかに見つかっているのみです。近隣の古墳から見つかったこれらの副葬品は、当時の副葬品として一般的なものです。乙塚古墳はもちろん、段尻巻古墳の被葬者もこれらの古墳の被葬者より上位の人物と考えられるため、副葬品もより豪勢だったことでしょう。
- 双龍環頭把頭
大刀の握りの頭部につけられた装飾品で、6世紀後半から7世紀にかけて多くつくられました。環内に一つの玉をくわえて向かい合う2匹の龍が配されています。これは龍ではなく鳳とする見解もあります。頭部には3本の冠毛があるものの、角はありません。全身が表現されていますが、デフォルメにより一見して龍(鳳)とはわかりづらいデザインとなっています。
-
鉄製品:馬具・鍔・柄縁金具・直刀・刀子・鏃
・大島1号墳
古墳時代後期~飛鳥時代
(6世紀末~7世紀初)
・南山3号墳
飛鳥時代(7世紀前~中)
瑞浪市陶磁資料館蔵 -
直刀
南山3号墳
飛鳥時代(7世紀前~中)
瑞浪市陶磁資料館蔵 -
刀子
南山3号墳
飛鳥時代(7世紀前~中)
瑞浪市陶磁資料館蔵 -
鏃
南山3号墳
飛鳥時代(7世紀前~中)
瑞浪市陶磁資料館蔵 -
土師器:甕、須恵器:坏身・有蓋高坏
南山3号墳
飛鳥時代(7世紀前~中)
瑞浪市陶磁資料館蔵 -
玉類
・大島1号墳
古墳時代後期~飛鳥時代
(6世紀末~7世紀初)
・南山3号墳
飛鳥時代(7世紀前~中)
瑞浪市陶磁資料館蔵 -
管玉と臼玉
大島1号墳
古墳時代後期~飛鳥時代
(6世紀末~7世紀初)
瑞浪市陶磁資料館蔵 -
勾玉(メノウ)
南山3号墳
飛鳥時代(7世紀前~中)
瑞浪市陶磁資料館蔵 -
勾玉(メノウ)
南山3号墳
飛鳥時代(7世紀前~中)
瑞浪市陶磁資料館蔵 -
玉類と耳環
・千田17号墳
古墳時代後期~飛鳥時代
(6世紀末~7世紀初)
・専行寺1号墳
古墳時代後期~飛鳥時代
(6世紀中、7世紀中~末)
恵那市教育委員会蔵
・南山4号墳
飛鳥時代(7世紀前~中)
・津島古墳
古墳時代後期~飛鳥時代
(6世紀末~7世紀初)
瑞浪市陶磁資料館蔵 -
三輪玉
千田17号墳
古墳時代後期~飛鳥時代
(6世紀末~7世紀初)
恵那市教育委員会蔵 -
耳環(金環)
専行寺1号墳
古墳時代後期~飛鳥時代
(6世紀中、7世紀中~末)
恵那市教育委員会蔵 -
耳環(銀環)
津島古墳
古墳時代後期~飛鳥時代
(6世紀末~7世紀初)
瑞浪市陶磁資料館蔵 -
玉類・耳環・柄頭
狐塚古墳
飛鳥時代(7世紀前)
多治見市教育委員会蔵
専行寺1号墳
古墳時代後期~飛鳥時代
(6世紀中、7世紀中・末)
恵那市教育委員会蔵 -
双龍環頭柄頭(レプリカ)
狐塚古墳
飛鳥時代(7世紀前)
多治見市教育委員会蔵
暮らしの器
東美濃地域では、古墳同様に集落遺跡の調査事例も少なく、実際の暮らしの様子はあまりよくわかっていません。しかし、器類は残りやすいため比較的様子がわかっています。調理には土師器を使い、食器や貯蔵用には主に須恵器を用いていました。当時の主食は米(うるち米)で、そのまま炊いたり雑穀を混ぜて粥や雑炊にもしましたが、甑を使って蒸したいわゆるおこわが食べられていました。この甑の登場により、煮る・焼くだけでなく蒸すという調理法が加わったため、魚、肉、野菜、山野草、木の実といった食材の食べ方、料理の幅に広がりが生まれました。
-
土師器と須恵器
権現遺跡
飛鳥時代(7世紀)
多治見市教育委員会蔵 -
土師器:甑と長胴甕
権現遺跡
飛鳥時代(7世紀)
多治見市教育委員会蔵 -
甑の底穴
権現遺跡
飛鳥時代(7世紀)
多治見市教育委員会蔵 -
土師器と須恵器
土師器:長胴甕・甑・甕・坩
丸池遺跡
古墳時代後期(6世紀前)
恵那市教育委員会蔵 -
土師器:甑と長胴甕
丸池遺跡
古墳時代後期(6世紀前)
恵那市教育委員会蔵 -
甑の底穴
丸池遺跡
古墳時代後期(6世紀前)
恵那市教育委員会蔵 -
土師器と須恵器
丸池遺跡
古墳時代後期(6世紀前)
恵那市教育委員会蔵 -
甑の使い方
土岐の領域のその後
トキの領域は乙巳の変(645年)後の政治改革「大化の改新」によって「刀支評」となり、大宝律令(701年)によって「土岐郡」へと改められました。その後、遅くとも8世紀中頃までに「土岐郡」と「恵奈郡」に分けられました。「刀支県主」を名乗る一族がいたことも知られており、評を治めた豪族との関連が考えられます。政治改革と仏教の普及などにより、7世紀末頃までに古墳はほぼ造られなくなり、評を治めた豪族は古墳の代わりに氏寺を建立するようになります。トキの豪族の氏寺と居館、評衙(役所)は未発見ですが、おそらく乙塚古墳の近郊、泉町域内にあったことでしょう。
- 仏教文化の広がりを示す遺物:銅鋺
銅鋺は、本来は仏具なのですが、古墳へ副葬されることもありました。これは古墳祭祀へ仏教が影響を及ぼした結果だと考えられています。大富西山1号墳出土の銅鋺(6世紀末~7世紀前)の原材料は、化学分析の結果から朝鮮半島北部産とされています。やや時代は下りますが、妻木平遺跡出土の須恵器鉢も仏具である金銅鉢を模したものです。金属製品は高価で誰もが使えたわけではないため、その代用品として須恵器や土師器の模造品も作られました。 - 古代寺院の存在を示す遺物:瓦など
飛鳥時代から奈良時代にかけて、瓦を使用する建物は寺院と一部の官衙(役所)に限られていました。隠居山須恵器窯では瓦に加えて、寺院で使用する水瓶なども生産されていることから、近隣に古代寺院が存在したことは明らかといえます。瓦や水瓶などは、銅鋺と同様に仏教文化の広がりを示す遺物ともいえます。この古代寺院は、評を治めた豪族が古墳の代わりに建立した氏寺だったと考えられ、今後の調査によって発見されることが期待されます。
-
銅鋺
大富西山1号墳
飛鳥時代(7世紀前~中) -
須恵器:鉢
妻木平遺跡
竪穴建物出土
奈良時代(8世紀前) -
仏教文化の広がりを示す遺物
-
刀支の木簡
-
刀支の木簡:表(レプリカ)
飛鳥池遺跡
飛鳥時代(7世紀後)
恵那市教育委員会蔵 -
刀支の木簡:裏(レプリカ)
飛鳥池遺跡
飛鳥時代(7世紀後)
恵那市教育委員会蔵 -
須恵器:水瓶、瓦
隠居山須恵器窯(新段階)
飛鳥~奈良時代
(7世紀末~8世紀初)
須恵器窯と美濃焼の始まり
東美濃地域で最古の窯は、乙塚古墳の被葬者が導入に関わったと考えられる隠居山須恵器窯と清安寺須恵器窯とされています。器を窯で焼く技術が須恵器に始まり現在まで受け継がれていることから、この須恵器窯を美濃焼の始まりとしています。隠居山および清安寺須恵器窯は、7世紀前半に畿内系の技術を導入して始まり、古墳の副葬品などが生産されました。乙塚古墳出土の鳥鈕蓋や焼成不足の製品は、ここで焼かれた可能性があります。しばらく後、7世紀末~8世紀初め頃になると隠居山須恵器窯では尾張の猿投窯から技術を導入し、役所と寺院向けの製品が生産されました。
-
隠居山須恵器窯(遠景)
-
隠居山須恵器窯(窯体)
-
清安寺須恵器窯の遺物①
須恵器:坏蓋・身
清安寺須恵器窯
飛鳥時代(7世紀前) -
清安寺須恵器窯の遺物②
須恵器:高坏・長頸壺・短頸壺・甕
清安寺須恵器窯
飛鳥時代(7世紀前) -
隠居山須恵器窯の遺物①
須恵器:坏身・高坏
隠居山須恵器窯(古段階)
飛鳥時代(7世紀前) -
須恵器:坏身
隠居山須恵器窯(古段階)
飛鳥時代(7世紀前) -
隠居山須恵器窯の遺物②
須恵器:坏蓋・無台付・甕・瓶類
隠居山須恵器窯(新段階)
飛鳥~奈良時代
(7世紀末~8世紀初) -
隠居山須恵器窯の遺物③
平瓦・丸瓦
隠居山須恵器窯(新段階)
飛鳥~奈良時代
(7世紀末~8世紀初) -
平瓦(格子たたき目)
隠居山須恵器窯(新段階)
飛鳥~奈良時代
(7世紀末~8世紀初)
【凡例】
このページは、土岐市美濃陶磁歴史館企画展「史跡整備完了記念~乙塚古墳とその時代~」のバーチャル展覧会です。
会期:2023年3月4日(土)~6月4日(日)
- 解説文の執筆は当館学芸員が行いました。
- 所蔵館の明記がない展示品は全て当館の所蔵品です。
- 展覧会リーフレット、および下記の発掘調査報告書については、「資料ダウンロード」よりダウンロードしてご利用いただけます。
-
-
- 史跡乙塚古墳附段尻巻古墳発掘調査報告書-第5・第6次-
- 史跡乙塚古墳附段尻巻古墳第7~9次発掘調査報告書
- 妻木平遺跡発掘調査報告書(第1分冊 遺構編)
- 妻木平遺跡発掘調査報告書(第2分冊 遺物・自然科学分析・考察編)
- 平成28~30年度土岐市市内遺跡発掘調査報告書
-
序 熊谷吉兵衛という人
熊谷吉兵衛(1814-1890)は、文化11 年に妻木村の神宮地区で窯焼きを営む家に生まれ、天保元年(1830)に16歳で多治見の陶器商「西浦屋」に奉公に出る。この頃、店主西浦円治(二代)は美濃焼の仲買に乗り出すと同時に、天保6年(1835)には美濃焼の販売を取りまとめる尾張藩の出先機関「美濃焼物取締所」の取締役に就任している。若き吉兵衛は主家の動向を目の当たりにしながら商人として成長し、やがて次代当主となる三代円治の腹心として活躍し始める。
一方、吉兵衛は商売の傍ら、「石門心学」という学問に出会い、西浦屋江戸店支配人を務めながらも学問の道を極めていく。明治初年、西浦屋を隠居して東洲と改名した吉兵衛は、明治23年に76歳で没するまで東京にあった石門心学の講舎「参前舎」舎主として、石門心学の普及に心血を注いだ。
-
書「忠孝仁」
山岡鉄舟/熊谷東洲(吉兵衛)
明治時代初期(19世紀) -
伝熊谷吉兵衛肖像写真
明治時代初期(19世紀)
はじめに
戦後復興の只中にあった昭和20~30年代、美濃の主産業である陶磁器生産の現場で女性のデザイナーが活躍したことをご存知だろうか。岐阜県高山出身の中上良子(なかがみよしこ・1932-2005)は、学生時代に学んだ絵の才能を活かし、多治見の太洋陶園で絵付けの仕事に従事する。そこで、窯業指導のために各地を訪れていた陶磁器デザイナーの日根野作三と出会う。中上の才能にいち早く気づいた日根野は、その後、折に触れて中上の活躍の機会を見出し、中上は陶磁器デザイナーとして、エマイユ(七宝)作家として活動の幅を広げ、評価を得ていくことになる。日根野を起点に美濃で巻き起こったクラフトデザインのムーブメントにも加わり、様々な作り手と関わりながら、生涯、制作に生きた中上良子の世界を展観する。
-
中上良子
『美濃グルッペ泥人』(1974)より転載 -
エマイユ額
中上良子
中上良子の生い立ち
中上良子は、岐阜県の高山で八人姉弟の五女として生まれた。幼少期は、岐阜県職員の父の仕事の都合で父・母・弟二人と中国の大連へと移り住んだ。異国での暮らしは戦況とともに悪化し、終戦直前の昭和19年(1944)頃、一家で帰国するも、翌年、父が急逝する。親戚を頼り、一時は岐阜市で暮らすこともあったそうだが、中上は岐阜県立高山高等学校を卒業している。のちに、陶磁器デザイナー、エマイユ作家として大成する中上だが、デザインをどこかで学んだ記録はない。一方、高山時代、画家 徳永富士子から絵を学んだというから、自身の感性をここで育んだことがうかがえる。
高校卒業後、姉を頼り多治見で職を探す。高校の教師が太洋陶園の安藤秀二に「絵が上手で、多治見で働きたい人がいる」と推薦したことで、中上は陶磁器の世界に飛び込むこととなった。
-
幼少期に家族と
前列左が良子、左端に父、左から3人目に母、ほか姉4人と弟2人が写る -
大連時代
康徳11年1月2日(昭和19年)
父、母、弟2人と -
高山時代
カンバスに向かう良子 -
中上良子略年譜
茶陶生産への転換 ~瀬戸黒・黄瀬戸・志野~
-
茶陶生産への転換
-
大窯
-
小解説:瀬戸黒
-
瀬戸黒茶碗
元屋敷東窯
安土桃山時代(16世紀末)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
小解説:黄色瀬戸
-
黄瀬戸花入
元屋敷東窯
安土桃山時代(16世紀末)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
黄瀬戸鉢
元屋敷東窯
安土桃山時代(16世紀末)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
華南三彩鉢
中国
明時代
(16世紀末~17世紀初)
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
小解説:志野
-
志野茶碗
元屋敷東窯
安土桃山~江戸時代
(16世紀末~17世紀初)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
鼠志野大鉢
元屋敷東1号窯
安土桃山~江戸時代
(16世紀末~17世紀初)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
志野大鉢
元屋敷東窯
安土桃山~江戸時代
(16世紀末~17世紀初)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵
元屋敷窯開窯と妻木氏 ~織部~
-
元屋敷窯開窯と妻木氏
-
連房式登窯
-
瀬戸大窯焼物並唐津窯取立之来由書
貞享3年(1686年)
土岐市指定文化財 -
瀬戸大窯焼物並唐津窯取立之来由書(翻刻)
赤線部分の翻刻 -
小解説:織部
-
史実に織部が登場した日
-
神屋宗湛日記(写本)
天保年間(1830~44年)
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
織部黒茶碗
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
黒織部茶碗
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
志野織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
青織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
総織部陶硯
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
鳴海織部向付
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
赤織部平碗
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財
岐阜県立多治見工業高等学校蔵 -
赤織部大鉢蓋
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
美濃唐津花入
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
美濃伊賀水指
元屋敷窯
江戸時代(17世紀初)
重要文化財
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
昭和の発掘ブームと美濃陶祖奉賛会
-
多治見工業学校による発掘
【凡例】
このページは、土岐市美濃陶磁歴史館企画展「重要文化財公開 元屋敷陶器窯跡出土品展」のバーチャル展覧会である。
会期:2022年2月18日~5月15日
・各作品写真のキャプションは、作品名、窯名(生産地)、時代、指定、所蔵者の順に明記した。ただし、所蔵者は公的機関及び団体に限り明示した。
・掲載資料は必ずしも展示の順序と一致しない。また、展示しているが掲載しない資料がある。
・解説文の執筆は当館学芸員が行った。
・掲載写真の無断転載を禁ずる。
はじめに
土岐市内には、現在301ヵ所の埋蔵文化財包蔵地、いわゆる遺跡があります。遺跡は、ご先祖さまの残したかけがえのない遺産なのですが、現代に生きる私たちが生活していくために必要な開発行為によって失われてしまうことがあります。このようにやむを得ず失われてしまう遺跡を可能な限り記録に残し、未来へと引き継いでいくために必要となるのが発掘調査です。本展では、土岐市内で近年に行われた多くの発掘調査の中から9ヵ所の遺跡を厳選して紹介いたします。
-
はじめに
-
美濃焼歴史年表
-
展示遺跡位置図
-
広口瓶
妻木平遺跡出土
平安時代(12世紀)
美濃須衛窯産 -
小解説:広口瓶
妻木平遺跡
当遺跡は土岐市南部の妻木町に位置する市内でも有数の広さを誇る遺跡です。平成22年度(2010年)から土岐市教育委員会が主体となり、妻木南部土地区画整理事業に伴う発掘調査を行い、これまでに約27,000㎡の調査を実施しました。その結果、縄文時代から近現代までの長期間にわたって、主に居住地や農地として利用されてきたことが明らかになりました。土岐市内では、これ程長期にわたる期間の遺構や遺物が確認された遺跡は他にありません。周辺には妻木城跡や妻木城士屋敷跡、いくつもの古窯跡群など、数多くの遺跡が点在し、八幡神社や崇禅寺など古くからの寺社も残るため、妻木町はもちろん、土岐市の歴史を知る上でも非常に重要な遺跡といえます。
-
妻木平遺跡について
-
妻木町内の主要遺跡位置図
妻木平遺跡:古墳時代
-
古墳の横穴式石室
-
古墳時代の焼失住居跡
-
土師器:高坏
古墳時代
4世紀前半
焼失住居から出土 -
小解説 焼かれた住居の意味
-
須恵器:平瓶
古墳時代
7世紀 -
須恵器:平瓶(底面)
底に刻まれたヘラ記号 -
小解説 須恵器:平瓶
妻木平遺跡:奈良~平安時代
-
奈良~平安時代の掘立柱建物群
-
須恵器:鉢
奈良時代
8世紀前半 -
小解説 須恵器:鉢
-
領主および役人が使用した特殊遺物
-
小解説 須恵器:風字硯
-
須恵器:鉢
奈良時代
8世紀前半
美濃国の刻印付き -
灰釉陶器:段皿(転用硯、内面)
平安時代
11世紀
硯に転用された段皿 -
灰釉陶器:段皿(転用硯、側面)
-
小解説 領主や役人が使用した特殊遺物
-
領主の権威や権力を示す遺物
-
青磁:碗(内面)
平安時代
12世紀中頃~後半 -
青磁:碗(側面)
-
小解説 領主の権威や権力を示す遺物
妻木平遺跡:鎌倉~室町時代
-
鎌倉時代の領主の館跡
-
中世の日常食器:山茶碗
-
山茶碗:碗
鎌倉時代
13世紀前半 -
山茶碗:小皿
鎌倉時代
12世紀末~13世紀前半 -
小解説 中世の日常食器:山茶碗
-
室町時代の明智氏居館跡
-
古瀬戸系施釉陶器
室町時代
15世紀 -
古瀬戸系施釉陶器:花瓶
室町時代
15世紀 -
小解説 茶の湯文化の広がり
妻木平遺跡:遺跡にみるインフラ整備
インフラとは、生活や産業の基盤となる公共設備のことです。当遺跡では古代に造られた用水路がそれに該当します。古代の食生活は主に稲作に依存していたため、水田のために整備されたと考えられます。今のところ水田遺構は見つかっていませんが、自然科学分析結果や田舟の出土もそのことを裏付けています。用水路はその後、位置をやや変えながらも中世、近世を経て現代まで連綿と使用され続けてきました。
この用水路は東側の山際に沿って造られ、西側に広がる平地に農地と居住地を配置する計画的なまちづくりが行われていました。また、この用水路は水田のためだけでなく生活用水や、祭祀具を流す場所等、様々に利用されていました。
-
遺跡にみるインフラ整備
-
用水路跡
-
小解説 田舟
-
田舟1
展示無し、写真のみ -
田舟2
展示無し、写真のみ -
用水路内の遺物出土状況
-
須恵器:長頸瓶
奈良時代
8世紀後半 -
小解説 用水路の整備
-
用水路からの出土遺物
-
灰釉陶器:碗(側面)
平安時代
9世紀前半 -
灰釉陶器:碗(底面)
-
山茶碗:碗(漆付き、内面)
鎌倉時代
13世紀前半 -
山茶碗:碗(漆付き、側面)
-
小解説 漆パレット
-
三筋壺
鎌倉時代
12世紀末~13世紀初頭
常滑窯産
妻木平遺跡:水への祈り
-
用水路に埋納された室町時代の墨書土器
-
用水路出土の墨書土器
-
須恵器:有台坏(万歳)1
奈良時代
8世紀前半
墨書「万歳」 -
須恵器:有台坏(万歳)2
-
山茶碗:小皿(〇、底面)
鎌倉時代
12世紀末~13世紀前半
墨書「〇」 -
山茶碗:小皿(〇、側面)
-
山茶碗:碗(+、底面)
室町時代
14世紀後半~15世紀前半
墨書「+」 -
山茶碗:碗(+、側面)
-
小解説 水への祈り
妻木平遺跡:仏への信仰
-
仏への信仰を示す遺物
-
須恵器:脚付香炉
奈良時代
8世紀 -
山茶碗:段皿(僧、底面)
平安時代
11世紀末~12世紀初頭
墨書「僧」 -
山茶碗:段皿(僧、側面)
-
小解説 水瓶
-
小解説 仏への信仰
妻木城士屋敷跡
当遺跡は、北と東を妻木川、西側を浦山谷川に挟まれた低位段丘面および緩傾斜地に立地しており、妻木城跡の麓に築かれた領主の館跡と家臣の屋敷跡で構成されます。妻木郷を治めた明智氏および妻木氏の本拠地であり、領主とその家臣が居住していた屋敷地だと考えられています。
屋敷地一帯は妻木氏宗家の断絶(1658年)後に農地へと転用され現在に至りますが、10次にわたる試掘調査の結果、戦国時代から江戸時代前期にかけての武家屋敷地の遺構が良好に残されていることが明らかとなってきました。一地方領主の山城と居館、そして家臣の屋敷地という一連の遺跡が良好に残る事例は全国的に見ても希少なため、非常に重要な遺跡といえます。
-
妻木城士屋敷跡について
-
第10次調査開始前
第10次調査(2019年) -
遺跡地図(赤色立体図)1
-
遺跡地図(赤色立体図)2
-
石垣周辺の遺構検出状況
第10次調査トレンチ1 -
石垣検出状況
第10次調査トレンチ2
調査終了時の状況 -
農地化後の堆積状況
第10次調査トレンチ2 -
遺物出土状況1
第10次調査トレンチ1
旧石垣跡内 -
遺物出土状況2
第10次調査トレンチ2
旧石垣跡内 -
発掘作業の様子
第10次調査トレンチ2 -
明智氏時代の遺物
室町時代
15世紀中頃 -
小解説 明智氏時代の遺物
-
遺物実測図
-
小解説 遺物実測図
-
妻木氏時代の遺物1
戦国~安土桃山時代
16世紀中~後半 -
妻木氏時代の遺物2
江戸時代
17世紀 -
茶碗と水指
江戸時代
17世紀 -
小解説 妻木氏時代の遺物
浅野館跡
浅野館は、承久の乱(1221年)後に土岐光行が築いた居館ですが、館そのものは未発見でした。しかし、令和2年(2020年)の第8次調査において、館に伴う堀跡と考えられる遺構が発見され、堀跡内から遺物は出土しなかったものの、館の位置に関する大きな手掛かりを得ることができました。
同年の第10次調査では、予想だにしなかった発見もありました。奈良時代末から平安時代初め頃の集落跡が発見されたのです。特に大型の掘立柱建物跡3棟(内2棟は高床式倉庫)は、当時の役所建物に相応しい規模を持ち、郷長宅、または郡衙別院(郡役所の支所)等の施設だと考えられます。古代に存在したもう一つの浅野館といってもいいでしょう。
-
浅野館跡について
-
浅野館跡遺構分布略図
-
堀跡検出状況1
第8次調査トレンチ1 -
堀跡検出状況2
第8次調査トレンチ2 -
区画溝検出状況
第9次調査トレンチ3 -
竪穴式住居跡
第9次調査トレンチ4 -
高床式倉庫群(空撮)
第10次調査トレンチ2 -
高床式倉庫跡
第10次調査トレンチ2 -
柱穴と柱抜き取り痕
第10次調査トレンチ2
高床式倉庫の柱穴跡 -
土師器:長胴甕の出土状況
第10次調査トレンチ1
一括廃棄された長胴甕 -
土師器:高坏
奈良~平安時代
8世紀末~9世紀初頭 -
小解説 精製土師器
-
土師器:長胴甕
奈良~平安時代
8世紀末~9世紀初頭 -
小解説 土師器:長胴甕
-
須恵器
奈良~平安時代
8世紀末~9世紀初頭 -
小解説 土師器と須恵器の違い
-
中世の遺物
鎌倉~室町時代
13世紀後半~14世紀後半 -
小解説 中世の遺物
上林遺跡
平成30年(2018年)の第5次調査において、古墳時代前期の竪穴住居跡1棟が発見されました。甕類(く字甕、S字甕)の他、壺、器台、鉢等、状態の良い土師器をはじめ砥石等も出土しました。調査範囲が限られたため、発見された建物は1棟だけでしたが、周辺には集落が広がっていたと考えられます。
さらに、竪穴住居跡の付近からは縄文時代晩期後半の深鉢形土器を重ねて埋めた遺構が見つかりました。これは土器を棺として利用した土器棺墓だと考えられます。これらの調査結果から、当地では少なくとも縄文時代と古墳時代に集落が営まれていたことがわかりました。市内ではこういった古い時期の集落跡の発見例が少ないため、とても貴重な遺跡といえます。
-
上林遺跡について
-
竪穴住居跡
-
土師器の出土状況
-
縄文土器の出土状況
-
発掘調査の様子(詳細)
-
発掘調査の様子
-
土師器:く字甕
古墳時代
4世紀前半 -
土師器:壺
古墳時代
4世紀前半 -
土師器:器台
古墳時代
4世紀前半 -
土師器:鉢
古墳時代
4世紀前半 -
土師器:S字甕
古墳時代
4世紀前半 -
小解説 土師器
-
縄文土器:深鉢(土器棺)
-
縄文土器:深鉢(A)
縄文時代晩期後半
BC1000年頃 -
縄文土器:深鉢(B)
縄文時代晩期後半
BC1000年頃 -
縄文土器:深鉢(C)
縄文時代晩期後半
BC1000年頃 -
縄文土器:出土状況図
-
小解説 縄文土器
乙塚古墳附段尻巻古墳
飛鳥時代に東濃地方を治めた領主の墓である乙塚古墳は、隣接する段尻巻古墳とともに、国の史跡に指定されています。この重要な遺跡を守り伝えていくため、令和元年から保存整備事業が進められ、並行して発掘調査も行われています。
乙塚古墳(方墳)では、希少な須恵器である鳥紐蓋の出土や、玄室内から既に失われたと考えられていた礫床が発見される等の成果がありました。段尻巻古墳(円墳)では、石室入口の割れた天井石の修復を行うとともに、前庭部の調査も行われました。出土遺物はわずかでしたが、礫床が非常に良好な状態で出土しました。両古墳の整備工事は令和4年度中に完了し公開される予定です。 ※工事完了まで両古墳とも非公開です。
-
乙塚古墳附段尻巻古墳について
-
平面図、円墳と方墳
乙塚古墳
乙塚古墳は、飛鳥時代(7世紀前半)の大型方墳です。この時期の大型方墳は、領主など特別な地位の人にだけ許された墓のため、乙塚古墳の存在は東濃地方が一つの行政区域(後の土岐郡)として成立した証ともいえます。乙塚古墳の主が統治した地域は、現在の多治見市から中津川市に至る広大な地域だったと考えられます。
墳丘は、全長約27m、段のない単純な構造です。墳丘表面に葺石は葺かれておらず、墳丘の周囲に掘りめぐらされる周溝もありません。玄室・羨道・前庭部で構成される横穴式石室(両袖式)は全長19.2mあり、美濃地方最大級の規模を誇ります。
-
乙塚古墳について
-
石室展開図
-
調査前(2019年)の状況
-
整備工事後(2020年)の状況1
石室入口周辺 -
整備工事後(2020年)の状況2
石室内の礫床を復元 -
整備工事後(2020年)の状況3
墳丘の整形を実施 -
前庭部の発掘
第8次調査(2019年)終了時 -
羨道の発掘
第8次調査終了時 -
玄室の発掘
第8次調査終了時 -
玄室の礫床
第8次調査終了時 -
墳丘の発掘
第6次調査(2015~2016年)終了時 -
鳥鈕蓋の出土状況
第6次調査 -
鳥鈕蓋と蓋部の断片
飛鳥時代
7世紀前半 -
鳥鈕蓋1
飛鳥時代
7世紀前半 -
鳥鈕蓋2
飛鳥時代
7世紀前半 -
小解説 鳥鈕蓋
-
図解 鳥鈕蓋
-
出土遺物:須恵器と土師器
飛鳥時代
7世紀前半 -
小解説 焼成不良の須恵器
-
出土遺物:鉄製品
飛鳥時代
7世紀前半 -
小解説 銙板
段尻巻古墳
段尻巻古墳は、乙塚古墳とほぼ同時期(飛鳥時代、7世紀前半)の円墳ですが、少し先行して築かれたと考えられます。近郊にある他の円墳(墳丘全長10m程度が多い)よりも大きく(墳丘全長約24m)、乙塚古墳に隣接して築かれていることからも、乙塚古墳の被葬者と組織的、または血縁的にとても近い有力者の墓だと考えられます。
墳丘は、乙塚古墳同様に段のない単純な構造です。やはり墳丘表面に葺石は葺かれておらず、墳丘の周囲に掘りめぐらされる周溝もありません。玄室・羨道・前庭部で構成される横穴式石室(疑似両袖式)は全長9.5m、乙塚古墳の半分の大きさです。
-
段尻巻古墳について
-
石室展開図
-
前庭部の調査前状況
第9次調査(2021年) -
前庭部の調査終了状況
第9次調査 -
前庭部の発掘作業
第9次調査 -
礫床の検出作業
第9次調査 -
礫床(羨道~前庭部)
第9次調査 -
割れた羨道の天井石
第9次調査に先立ち実施 -
修復した天井石の再設置
第9次調査に先立ち実施 -
土師器:長頸瓶(側面)
飛鳥時代
7世紀前半 -
土師器:長頸瓶(内面)
-
小解説 土師器:長頸瓶
-
出土遺物:須恵器
飛鳥時代
7世紀前半
曽木上田遺跡
平成29年(2017年)に初めて調査が行われました。建物跡等の遺構は発見されませんでしたが、小川の跡から東濃地区で初めて「暗文土器」(奈良時代初め頃のもの)が出土したことが注目されます。
暗文土器は、当時の最高級食器である金属器を模して作られたもので、主に都の役所や寺院で使用されていました。そのため、地方ではとても貴重な品でした。当遺跡は、2つの街道(後の中馬街道と中馬中街道)を南北に結ぶ交通の要所に位置しています。かつてこの付近に役所、または寺院があり、その関係者がこの暗文土器を持ち込んだと考えられます。たった一つの小さな遺物が物語る古代の曽木、今後の追加調査が期待されます。
-
曽木上田遺跡について
-
曽木上田遺跡と街道
-
暗文土器出土状況
-
暗文土器(内面)
奈良時代初頭
8世紀初頭 -
暗文土器(底面)
奈良時代初頭
8世紀初頭 -
小解説 暗文土器
-
出土遺物:土師器と須恵器
奈良時代初頭
8世紀初頭
元屋敷陶器窯跡
国史跡元屋敷陶器窯跡は、安土桃山時代から江戸時代初頭に美濃桃山陶を生産した窯跡で、4つの窯跡からなります。令和元年(2019年)10月から令和3年(2021年)5月までの間に起きた台風や集中豪雨によって複数回にわたり土砂崩れが発生した東1号窯南側崖地の災害復旧事業に伴う調査を行いました。
地盤が非常に危険な状態だったため、十分な考古学的調査は行えませんでしたが、崖地の堆積状況を明らかにするとともに、廃棄された窯道具を中心とする多くの遺物を得ることができました。特に東1号窯が営まれた最初期のものと考えられる物原を確認できたことは大きな成果でした。崩積土内からの遺物採集作業は未完了のため、令和4年度も調査を継続予定です。
-
元屋敷陶器窯跡について
-
元屋敷陶器窯跡(空撮)
-
大窯について
-
崩落状況
東1号窯付近 -
崩積土除去作業
-
発掘調査終了状況
-
崖部の堆積状況
-
物原の詳細
-
遺物採集作業
-
出土遺物:製品1
安土桃山時代
16世紀後半~末 -
出土遺物:製品2
安土桃山時代~江戸時代初頭
16世紀末~17世紀初頭 -
志野向付(溶着)
安土桃山時代~江戸時代初頭
16世紀末~17世紀初頭 -
出土遺物:製品3
江戸時代前期
17世紀 -
出土遺物:窯道具1
安土桃山時代~江戸時代初頭
16世紀末~17世紀初頭 -
出土遺物:窯道具2
安土桃山時代~江戸時代初頭
16世紀末~17世紀初頭 -
小解説 窯道具の使い方例
中山1号窯
本窯は、室町時代(15世紀前半)の山茶碗窯です。平成28年(2016年)に行った発掘調査では、窯体と灰原の他に作業場と居住区の遺構も合わせて発見され、これまで不明瞭だった山茶碗生産が終盤に差し掛かった頃の様子を明らかにしてくれる新しい情報をいくつも得ることができました。
窯体構造は、いわゆる窖窯ですが、これまでにほとんど類例の無いいくつかの特徴を持っていました。焚口に設けた石積み側壁の片側だけ取り外し式にして作業スペースを設けてあること、燃焼室から焼成室への段差(昇炎壁)が非常に高いこと、焼成室の天井を架構・補修するための柱基礎を設けていること等、大窯が発明される直前期の陶工たちによる試行錯誤の歴史を物語る貴重な窯跡といえます。
-
中山1号窯跡について
-
遺跡全景空撮と平面図
-
窯体正面の様子・窯体断面図
-
窯体
-
分炎柱と昇炎壁
-
天井架構・補修用柱基礎
-
灰原と窯体掘削廃土
-
前庭部遺物検出作業
-
前庭部遺物出土状況
-
山茶碗窯(窖窯)模式図
-
出土遺物:製品
室町時代
15世紀前半 -
出土遺物:窯道具
室町時代
15世紀前半 -
窯詰め方法:碗
-
窯詰め方法:小皿
-
小解説 窯詰めについて
-
成形技法について
-
小解説 成形技法:碗/蓋
-
小解説 成形技法:小皿
林景正氏窯跡
林景正氏(岐阜県重要無形文化財:黄瀬戸)は、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部等の美濃桃山陶だけでなく、あらゆる美濃古陶の再現に情熱を捧げた昭和の美濃焼を代表する名陶工です。
林氏が築いた「乙塚窯」跡は、段尻巻古墳の発掘調査中に墳丘南西端付近で発見され、平成29年(2017年)に調査が行われました。石炭を燃料とした窯で上部構造は既に失われていましたが、吸炎孔下の土坑と、その周囲を取り巻くように配された煙道等、下部構造の一部が残っていました。その他、焚口下に設けられたロストルの一部も確認できました。遺物としては「乙塚窯」と刻まれた完形の匣鉢(エンゴロ)の他、黄瀬戸、瀬戸黒等、林氏の作陶の様子をうかがい知ることのできる製品片が出土しました。
-
林景正氏窯跡について
-
出土遺構写真・平面図
-
角窯(石炭窯)について
-
林景正氏略歴
-
黄瀬戸胴紐茶碗
林景正作
昭和時代
土岐市美濃陶磁歴史館蔵 -
出土遺物:製品
昭和時代 -
出土遺物:窯道具
昭和時代 -
匣鉢:乙塚窯銘
昭和時代
【凡例】
このページは、土岐市美濃陶磁歴史館企画展「発掘調査報告展~土岐を掘る~」のバーチャル展覧会です。
会期:2022年2月18日(金)~5月15日(日)
・解説文の執筆は当館学芸員が行いました。
・展示品は全て土岐市美濃陶磁歴史館に保管されています。
・現時点(令和4年3月)で整理作業中の遺跡もあるため、展示した全ての遺跡について発掘調査報告書が刊行されているわけではありません。
・一部の刊行済み発掘調査報告書については、「資料ダウンロード」よりダウンロードしてご利用いただけます。
第1部 小山冨士夫と美濃
世界的な陶磁研究者として知られる小山冨士夫(1900~1975)は、若い頃に陶工を志した後、研究者へと転じ、現在の陶磁研究の基礎を築いた人物である。小山は昭和35(1960)年の「永仁の壺事件」以後に作陶を再開、昭和48 (1973)年に陶芸家塚本快示を介して交流のあった二宮安徳市長の招きにより土岐市へ移住し、「花の木窯」を開いた。小山は種子島の土による作品を独特の薪窯で焼成するなど、短期間ながら精力的な創作活動を行い、昭和50 (1975)年に土岐市において75歳の生涯を終える。晩年を土岐市で過ごした小山だが、美濃との関わりは長く、とくに親しかった陶芸家荒川豊蔵との交流により昭和初期からたびたび美濃を訪れてきた。本展では第1部で小山と美濃との関わりをたどりながら、小山の陶芸家としての一面を紹介する。
-
小山冨士夫 花の木窯にて
三枝朝四郎撮影
1973~75年
序 小山冨士夫の生涯
小山冨士夫は明治33(1900)年に現在の岡山県倉敷市のキリスト教徒の家庭に生まれ、4歳で転居した東京で三田の聖坂基督友会(教派:クェーカー)の日曜学校へ通っている。小山の生き方や精神性には、キリスト教徒としての生い立ちが強く影響していたといえる。
小山は陶磁研究の大家として名を残すが、青年期は社会主義運動に共鳴、東京商科大学(現一橋大学)を中退してカムチャッカ行きの蟹工船に乗り込んだエピソードもある。23歳で入隊した軍隊の同僚の影響により陶磁に興味をもち、除隊後、やきものと関わる人生を歩み始める。
小山の業績で必ず語られるのは昭和16(1941)年、戦火の中国での定窯白磁窯址の発見であり、戦後は東洋陶磁研究で実績を積み重ねていく。加えて『陶磁』など専門誌の編集、無形文化財の選定など陶磁振興に寄与し、その業績は語りつくせないほど多岐にわたる。
-
書 良寛詩「草庵雪夜」
小山冨士夫
1960~70年代
土岐市美濃陶磁歴史館(二宮コレクション)
【前期】 -
書「温心寒眼」
小山冨士夫
土岐市美濃陶磁歴史館
【後期】 -
種子島茶碗 銘「満月」
小山冨士夫
花の木窯
1973年
愛知県美術館(木村定三コレクション)
【前期】 -
種子島鉢
小山冨士夫
花の木窯
1973~75年
可児市荒川豊蔵資料館
【後期】
Ⅰ 京都時代 ―陶工を志し、生涯の友と出会う―
陶磁研究で知られた小山だが、意外にも最初に志したのは陶工だった。大正14(1925)年、瀬戸の矢野陶々に半年間ほど弟子入りして作陶の基礎を学び、数か月の入隊期間を経て、翌年には京都山科の二代目真清水蔵六に弟子入りする。当時、蔵六を訪ねてきた北大路魯山人や荒川豊蔵とも初めて顔を合わせている。
昭和2(1927)年、小山は独立して京都蛇ヶ谷(現東山区)で作陶を始める。向かいに石黒宗麿が越してきて交流が始まり、毎日のように陶磁論を語り合い、二人は生涯の友となった。
昭和4~5年には京都や大阪で石黒と作品展を開催するものの、小山の作品は売れず、川喜田半泥子が13点を買い上げたのがほぼ唯一だったという。30歳の小山は陶工の道を断念して帰京、東洋文庫へ通って陶磁関係の書物を読み漁り、陶磁研究者としての道を歩み出す。一方の石黒は、京都において作陶の道を究めていった。
-
白瓷黒絵双魚盆
石黒宗麿
1940年
愛知県陶磁美術館(川崎音三氏寄贈)
【前期】 -
赤絵水指
石黒宗麿
1966~67年頃
愛知県陶磁美術館(川崎音三氏寄贈)
【後期】
Ⅱ 美濃との出会い
昭和5(1930)年、荒川豊蔵が大萱(現可児市)の山中で、筍絵の志野陶片を発見。瀬戸産と思われていた志野や織部が実は美濃産だったことが明らかとなり、美濃古窯へ注目が集まった。
翌年、小山冨士夫は大阪毎日新聞社による美濃古窯調査団に参加し、初めて美濃を訪れる。その後、昭和8(1933)年に豊蔵が大萱に築窯し、桃山陶復興を試みるようになると、小山はたびたび美濃を訪れるようになる。豊蔵との交流は終生続き、陶磁研究にまい進する日々の中、ときおり美濃を訪れ、作陶も行っていた。
また、塚本快示とは、小山の著書に感銘を受けて青白磁の研究を始めた快示が小山を訪ねたことから交流が始まり、やがて、晩年に小山が土岐市に終の棲家をかまえることへとつながっていく。
-
元屋敷窯跡出土陶片
元屋敷窯
17世紀初
重要文化財
岐阜県立多治見工業高等学校
【前後期】 -
潞安茶碗
中国
可児市荒川豊蔵資料館
【前後期】 -
美濃・高田にて
1941年
【前後期】 -
荒川豊蔵邸宿帳
1942~63年頃
可児市荒川豊蔵資料館
【前後期】 -
粉引梅鉢文汲み出し/絵唐津湯呑
写真左:水月窯
1960年代
多治見市美濃焼ミュージアム
写真右:水月窯
1960~70年代
土岐市美濃陶磁歴史館(二宮コレクション)
【前後期】 -
瀬戸黒茶碗 銘「花ノ木」
荒川豊蔵
1935~44年
可児市荒川豊蔵資料館
【前後期】 -
色絵「花」字茶碗
小山冨士夫
永福窯(鎌倉)
1969年
土岐市美濃陶磁歴史館
【後期】 -
柿釉盃
小山冨士夫
永福窯(鎌倉)
1966~70年代
土岐市美濃陶磁歴史館
【前期】 -
青白磁水指
小山冨士夫
快山窯
1960~70年代
【前後期】 -
青白磁花瓶
小山冨士夫
快山窯
1960~70年代
【前後期】 -
青白磁花鳥文壺
塚本快示
土岐市美濃陶磁歴史館
【前期】 -
白瓷水鳥文大皿
塚本快示
土岐市美濃陶磁歴史館
【後期】
Ⅲ 美濃陶芸村と花の木窯開窯
土岐市初代市長二宮安徳(在任1955~ 75)は就任以来、産業・文化両面から様々な美濃焼振興策を打ち出していた。二宮は多くの文化人との交流を市政に生かしたが、益子の濱田庄司とはとくに親しかった。濱田や塚本快示を通じて、小山ともつながりが生れ、二宮が益子の濱田を訪ねた際には、二人揃って東京の出光美術館を訪問し小山に会っている。
二宮市政の集大成として昭和45(1970)年に「美濃陶芸村」構想が動き出す。これは、志野や織部発祥の地を「陶芸のメッカ」にという二宮の意図によるものだった。
陶芸村の第1号入村者として、小山に白羽の矢が立ち、翌春、快示らが五斗蒔の候補地を案内したところ、小山はそこに立つ濃紅色の花を枝いっぱいにつけた「ハナノキ」の大木に目を奪われ、開窯を即断する。そこは、豊蔵の陶房とも峠一つ隔てただけの場所だった。
-
白搔落花生
小山冨士夫
花の木窯
1973~75年
岐阜県現代陶芸美術館
【前期】 -
種子島扁壺
小山冨士夫
花の木窯
1973~75年
岐阜県現代陶芸美術館
【前期】 -
種子島茶碗
小山冨士夫
花の木窯
1973~75年
土岐市美濃陶磁歴史館(二宮コレクション)
【後期】 -
種子島壺
小山冨士夫
花の木窯
1973~75年
土岐市美濃陶磁歴史館
【後期】 -
志野茶碗 銘「DEMO」
小山冨士夫
花の木窯
1975年
可児市荒川豊蔵資料館
【前期】 -
信楽壺
小山冨士夫
【後期】 -
花の木湯呑
花の木窯
1973~75年
【前後期】 -
種子島水指
中里隆
花の木窯
1973~75年
【前期】 -
花の木窯遠景
1974年11月
【前後期】 -
花の木窯・邸宅立面図
半澤重信
1972年
舘林建設株式会社
【前期】 -
花の木窯邸宅
三浦悠撮影
1973年
岐阜県現代陶芸美術館提供
【前後期】 -
花の木窯 窯開きの日
三浦悠撮影
1973年5月
岐阜県現代陶芸美術館提供
【前後期】
Ⅳ 小山冨士夫を偲ぶ
小山が作品を世に出したのが晩年の十年間だったことから、陶芸は陶磁研究者の余技とみられがちだが、小山にとって陶磁研究と陶芸は分かちがたいものだった。そして、人生の最期に自身の美意識を投影した終の棲家を築き、心赴くままに作品を生み出した「花の木窯」は、小山の人生が結実した終着点だったといえる。
小山は土岐市へ居を移し作陶に励む傍ら、相変わらず全国を飛び回る多忙な日々を送っていた。昭和48(1973)年7月、小山はもう一つの念願だった東洋陶磁学会を設立、同年12月に土岐市文化会館において第一回大会が開催され、全国の陶磁研究者が集った。小山の移住により、二宮市長が思い描き小山に託した夢、「陶芸のメッカ」土岐市の姿が現実になろうとしていた。ところが、移住から3年に満たない昭和50(1975)年10月7日、小山は花の木窯で急逝する。享年75歳だった。
-
書「客酔眠主静踊」
藤原啓
1975~76年
土岐市美濃陶磁歴史館
【前期】 -
書「古山子を憶う詩」
田山方南
1975年
土岐市美濃陶磁歴史館
【後期】 -
小山冨士夫葬儀しおり
1975年
多治見市美濃焼ミュージアム
【前後期】
終 小山冨士夫が視た美濃桃山陶
安土桃山時代から江戸時代初頭の「茶の湯」の流行を受け、美濃で誕生した茶陶のことを「美濃桃山陶」と呼び、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部の種類がある。小山冨士夫は、この美濃桃山陶をどのように視ていたのだろうか。
小山は「桃山時代のやきもの」について、「その時代をよく反映して、豪壮で自由奔放なもの」が多く、「明るく、はなやかで、変化に富んでいる」と述べる。そして、この時代に造られた茶器類は、「わが国古陶磁のうちでも特にすぐれ、日本的な特質を最もよく示す」ものと評する。
その中でも特に美濃桃山陶については、器形や文様が変化に富み、「明るく、自由で、生気にあふれている」とし、この時代は美濃窯が「わが国製陶の中心」だったと述べる。
小山は、美濃焼が古く須恵器生産(7世紀)に始まることを理解しつつも、美濃については、桃山陶をとくに評価していたことがうかがえる。
引用文献:小山冨士夫 1962 「日本陶磁史概説」『日本名陶百選』日本経済新聞社
-
なぜ美濃は六古窯に入らなかったのか
引用文献:小山冨士夫1974「日本六古窯の思い出」『別冊・歴史手帖』名著出版
【前後期】
2.美濃桃山陶で遊んでみた
いろんな視点で分けて、見る
重要文化財の大半を占める美濃桃山陶。その特徴は、それまでの茶の湯の価値観を打ち破る多彩なデザインです。色、形、文様、どれをとってもバリエーション豊富で、使う人を楽しませる器であるといえます。当時の流行をふんだんに取り込みながら個性を放つ器の表情は、小さなカケラからでも垣間見ることができます。時代を映した一つひとつの陶片を、じっくりと観察してみてください。
色で見る美濃桃山陶 -唯一無二の黄色-
黄瀬戸の黄色は、灰釉に含まれる鉄分を意図的に黄色く発色させることで得られる色です。このやわらかな黄色を地とし、緑(胆礬・たんぱん)や茶(鉄彩・てっさい)を散らした装飾は、中国の華南三彩(かなんさんさい)に影響を受けたとされています。瀬戸黒の黒や志野の白は織部に引き継がれたのに対し、なぜか黄瀬戸の黄色が引き継がれることはありませんでした。
-
黄瀬戸
色で見る美濃桃山陶 -数量限定生産の漆黒の器-
瀬戸黒から始まる美濃桃山陶の黒は、織部黒や黒織部へと続きます。同時に、窯の形態が大窯から登窯へと移行しますが、発色の技術は同じで、鉄釉を施し、焼成中の窯から引き出し急冷させることで漆黒色となります。引き出すための色見穴に近い位置にしか製品を置くことができないため、必然的に数量限定生産となります。
-
瀬戸黒
-
織部黒
-
黒織部
色で見る美濃桃山陶 -日本初の白いやきもの-
長石釉(ちょうせきゆう)の発見によって生まれた白い器「志野」。新しい釉薬の発見とともに注目すべきは、美濃特有の素地の色です。鉄分の含有量が少ない素地は、白い釉薬をより白く見せることができました。中国産の白磁(はくじ)に憧れ、国内の磁器生産に先駆けて実現した日本初の白いやきものは、温かみのある日本独自の白でした。
-
灰志野
志野に先行して生産された灰志野は、新旧の釉薬原料である灰と長石の両方を混ぜた釉薬を施しています。青みがかった灰色は、志野に至る試行錯誤の色といえます。 -
志野
-
鼠志野
鼠志野は、白地に黒の絵が描かれた志野の配色を反転させた器です。鉄分を多く含んだ鬼板を全面にかけ、文様を搔き落として長石釉をかけます。手間がかかる技術でも、使う人を楽しませるために趣向を凝らす陶工の姿が浮かび上がります。
色で見る美濃桃山陶 -志野と志野織部-
両者は、使われた素地や釉薬がほとんど同じです。大窯で焼成したものを志野、連房式登窯で焼成したものを志野織部と呼んでいます。大窯では、長石釉が白濁し、文様が不鮮明なものが多いのが特徴です。一方、連房式登窯では高温を保つことができ、釉がよく溶けて透明度が高く、下絵の文様がくっきりと際立ちます。
-
志野織部
色で見る美濃桃山陶 -織部は緑だけじゃない-
高温を保つ登窯により量産された銅緑釉の器。織部を印象付けるのは、この緑色です。他にも、鉄分を加えた褐色の土を用いたものや、2つの釉薬や土によって、半身ずつ異なる意匠とし、当時の流行「片身替り」を取り入れたもの等があります。釉薬や粘土の改良・開発、組み合わせが、他産地にはない豊かな色彩を生みました。
-
青織部
-
総織部
-
鳴海織部
白土と赤土を繋ぎ合わせた鳴海織部では、土の境目で割れたものが見つかっています。収縮率の異なる2種の土を用いることで失敗作が生まれやすくとも、豊かな色彩を求めた陶工の苦労がうかがえます。 -
赤織部
-
織部茶入
-
美濃唐津
美濃唐津や美濃伊賀は、唐津や伊賀産の茶陶を美濃で模したものです。特に美濃唐津の褐色は、鉄分を多く含んだ土を使用し、唐津の土に近づけています。一方、唐津でも褐色の土に長石系の釉を掛け、鉄絵を施し、美濃の製品に似せたものが作られました。 -
美濃伊賀
形で見る美濃桃山陶 -自由になった器の形-
茶碗の造形は、瀬戸黒の筒形から志野にかけて徐々に歪みを帯び、織部で大胆な沓形へと変化します。一方、向付等の食器類も、型による成形技術を多用することで、円形から四角形、そして多角形や具象的な形へと大きく変化していきました。これらは、従来の茶の湯の価値観を打ち破った、新しい時代の形といえます。
-
茶碗の造形
大胆な造形の変化は、茶の湯の価値観の変化と深く結びついています。完成された美を持つ唐物第一主義から解き放たれ、歪みが許容された時代の器は、楽し気なものであふれています。 -
食器の造形
-
揃いの器や南蛮文化
文様で見る美濃桃山陶 -新しい釉薬がもたらしたもの-
文様表現の大きな画期は、長石釉の登場にあります。灰釉では不可能だった下絵付けが実現したことで、筆による自由な表現が可能となりました。刻線文や印花等、素地の凹凸で示す黄瀬戸の繊細な表現は、総織部に引き継がれた一方、筆による線の強弱や複数のモチーフを組み合わせた、志野や織部の賑やかな表現が発展します。
-
素地の凹凸で表現した文様
黄瀬戸・総織部 -
筆で描いた文様
灰志野・志野・織部 -
茶碗に描かれた文様
茶の湯の茶碗は、無文であることが常でしたが、桃山時代には、文様が描かれるようになります。描かれたのは、なんだかよくわからない文様が多く、使う人の想像を掻き立てるようなものでした。 -
さまざまな文様①
-
さまざまな文様②
向付等の食器類に描かれた文様は、じつに多彩です。梅や松等の植物や、千鳥や鷺等の鳥類がよく描かれるモチーフです。複数のモチーフを一つの器に詰め込んだ賑やかさが、織部の楽しさの一つといえます。 -
さまざまな文様③
たくさんの器が並んでいると、同じモチーフを描いたものでも、そのフォルムが異なることに気が付きます。調子が悪かったのか、技量の問題か…手描きだからこそ、時を超えてなお、ある意味で絵付け職人の存在を感じさせるものもあります。 -
釉を引っ掻いたり埋め込んだりした文様
鼠志野や織部では、釉薬を搔き落として文様を描き、搔き落とした部分に別の釉薬を埋め込む象嵌(ぞうがん)技法を用いて、色彩のコントラストが強調されています。
新博物館に向けたプレ展示
新しい博物館では、元屋敷陶器窯跡の重要文化財すべてを収蔵しながら展示する「重文展示室」を館の目玉として整備する計画を進めています。膨大な陶片をどのように魅せるか、その手法は模索中ですが、透明なケースに展示してみたら、どう見えるのかを試行してみました。
-
新博物館に向けたプレ展示
北から -
新博物館に向けたプレ展示
東から -
新博物館に向けたプレ展示
南から -
新博物館に向けたプレ展示
西から
桃山デザインを現代に活かす -京都市立芸術大学学生による桃山デザイン-
京都市立芸術大学では、桃山陶を考古学的視点で楽しく学び、そこから着想を得た作品を制作する「考古楽 桃山デザイン」という授業が行われています。陶磁以外に漆器、テキスタイル、LINEスタンプなど、桃山陶を起点に多方向に広がる発想の数々は、桃山デザインの尽きることのない可能性を感じさせます。デザインと考古学を掛け合わせ、桃山時代と現代をつなぐ取り組みは、美濃でも新たな風を生むことができるのではないでしょうか。
-
momo椀’s
堀口史帆
2021年 漆/漆器
デザインが簡略化された桃山陶の文様に着目。桃山陶からモチーフを抽出し、漆椀に漆で加飾しています。
複数の椀で構成することにより、桃山文様の新しい魅力を見つけ出す楽しみや、会話が生まれるきっかけとしたいという意図が込められています。 -
オリベシッキ
北浦雄大
2021年 漆/樹脂
形は樹脂素材を3Dプリンターで出力し、表面を漆で塗装した作品。陶器とは異なる質感の「オリベシッキ」をつくって自分の生活の中に取り込むことを試みたといいます。
器形は京都三条せと物や町跡から出土した織部向付そのものですが、その手取りの軽さには意表を付かれます。 -
桃山おざぶとん
山口汐璃乃
2021年 綿/撚糸/反応性染料
桃山陶のための「お座布団」に見立てた小帛紗。実物の桃山陶の器形や図文をモチーフに、一点一点の器のための誂えとして制作されたものです。
簡略化して表現された器形や図文により、桃山陶の豊かなデザイン性が際立ってきます。 -
触って楽しむ桃山デザイン
倉澤佑佳
2022年 MDF
桃山陶の造形や文様を「触って楽しむ」ことを目的とした作品。福井県陶芸館の学芸員でもある作家は、福井県立盲学校の協力を得ながら改良を重ね、凸を指で触る形式にたどり着きました。ユニバーサル・ミュージアム(誰もが楽しめる博物館)につながる桃山デザインの新たな可能性を示す作品です。 -
ユメミル 触感
四方理南
2022年 羊毛
厚みがあり柔らかい桃山陶の形を心地よいと感じ、それらを表現するため、縮める加工をすることで密度が増し分厚くなる羊毛を素材として制作。タイトル「ユメミル」は、当時の陶工たちも「よりカラフルな色が使えていたら夢見心地な色を使おうと思う人もいるよね。たぶん。」として、付けています。 -
抹茶パッケージ
古草舞也子
2020年 紙/チャック付き袋
抹茶を飲みながら桃山文化に想いを馳せてほしいと、新しい抹茶のブランディングをし、パッケージとポスターを制作。伝世する著名な桃山陶三碗を取り上げ、それぞれの茶碗の雰囲気に合った味の抹茶を想定しています。 -
ももやまあにまる
大西由羽
2021年 フェルト/発砲スチロール/粘土
桃山陶の文様によくみられる「鷺」をモチーフとした作品。
桃山陶のゆるさと土や釉薬の色を表すため、柔らかく優しい色合いのフェルトを使用し、鷺のからだの渦巻きは、器の轆轤目に着想を得ています。 -
織部焼デザイン
林田恵美
2020年
日本美術の有名な作品をイメージして織部焼のデザインをしました。緑色と白色で構成してあるものは青織部、赤色を使っているものは鳴海織部です。
もとにした作品の構図の大胆さを取り入れ、釉薬を重ねて色を深めることで奥行きが出るデザインにしています。〈文:作家本人〉 -
桃山模様グッズのデザイン案
吉田真希
2020年
スマホケースやマスクなど、今よく使われているものに桃山時代の陶器に描かれた文様をモチーフにしてデザインしました。
可愛さがありながらも、誰でも使えるように派手さを抑えワンポイントに文様を入れました。〈文:作家本人〉 -
美術館併設カフェ
増川知乃
2020年
桃山陶器にたびたび登場する、ゆるくかわいい図柄をモチーフとした、美術館併設カフェ「momo」です。各種ドリンクはもちろん、m o m oでしか買えない限定オリジナルグッズも販売しています。現代的なモチーフで再構成された、オリジナル家紋のラテアートが楽しめる、カフェラテがおすすめです。
あわただしい日常から少しはなれ、ゆったりとした時間を過ごせる空間を提供します。〈文:作家本人〉 -
LINEスタンプ 桃山陶器妄想
梁 卓瑩
2020年
桃山陶の文様を抽出してイラスト化し、LINEスタンプを制作したもの。
「いい天気~ 」「眠い」など、友人どうしでのLINEのやり取りでよく使われそうな言葉と、桃山陶のゆるいモチーフをうまく組み合わせ、独特の雰囲気を醸し出しています。
ちなみに、「JUMP‼」のスタンプに用いられる文様は、とりわけ学生たちの心に響いたモチーフで、他の多くの作品にも取り入れられています。ウサギだけれど、細く折れ曲がった足が虫のように見えることから、学生たちに「ムシウサギ」と名付けられました。 -
イタリアちゃん
中村日奈子
2020年
ここに描かれた「鳴海織部向付」は、作家が織部焼の大胆で優しい色遣いと形、包み込むような魅力に初めて引き込まれたきっかけとなった作品だといいます。
鳴海織部の緑、白、赤の配色を、イタリアの三色旗になぞらえ「イタリアちゃん」と命名しました。
桃山時代、突如現れた色彩豊かな織部焼は、茶の湯を明るく楽しい場へと変化させたことでしょう。織部の特徴を感覚的に捉え、現代的な言葉に置き換えた作家のセンスが光ります。 -
京ばあむ
大西由羽
2020年
「青織部扇形蓋物」は、器を扇形に造り出した織部焼ならではの力強い作品です。
作家がイラストで表現した「京ばあむ」は、この扇形を抹茶味のバウムクーヘンになぞらえたものでしょうか。
「京ばあむは、どっちだ?」としていますが、抹茶味のバウムクーヘンがそのまま織部蓋物の中にすっぽりと入ってしまいそうです。 -
沓形茶碗デザインの靴
柴田若奈
2021年
桃山時代の沓形茶碗のデザインを、現代の靴に転用しました。「沓」とは西洋文化が入ってくる以前の日本の履物のことで、沓形茶碗はまさにその履物のような形をした茶碗です。このデザインを靴の意匠に変換してみることで、改めて桃山時代の造形が大胆で新鮮であると感じました。
靴の素材や手触りは、元になった茶碗の質感を想定しています。(光沢の強い茶碗なら光沢のある靴、模様に凹凸のある茶碗ならエンボスのついた靴、など)また靴底の色は、茶碗の高台が元になっています。〈文:作家本人〉 -
現代の桃山デザイン×桃山の織部
大西由羽/倉澤佑佳/堀口史帆/山口汐璃乃/梁 卓瑩
×
元屋敷窯 重要文化財
第1章 吉兵衛が生まれた頃
美濃焼流通と西浦円治
19世紀初頭、美濃では磁器生産が開始され、江戸での需要の大きさから生産量が急増する。同時期に流通面でも大きな動きがあり、ここに深く関わってくるのが西浦屋の当主二代西浦円治である。
享和3年(1803)、美濃では尾張藩の「蔵元制度」の傘下に入り、美濃焼が瀬戸焼といっしょに流通するようになる。美濃側にとって、尾張藩を介しての江戸市場参入が大きな目的だったが、制度が動き始めてみると様々な不都合が露呈したことから、天保3~4年(1832~33)に尾張藩傘下からはずれ、美濃焼の江戸市場での独自販売を目論む動き「水揚会所設置運動」が起る。この運動を主導したのが、当時多治見村の庄屋だった二代円治だった。この運動は失敗に終わるが、天保6年(1835)に多治見村に尾張藩の出先機関として「美濃焼物取締所」が設置され、美濃焼が全て取締所を介して出荷される仕組みが整う。そして、初代美濃焼物取締役に二代円治が就任し、美濃焼の生産販売を統括する立場となった。
-
初期の新製焼
市之倉中2号窯
多治見市教育委員会 -
西浦屋で取引記録のある美濃焼
市之倉中2号窯・洞窯・高田大ザヤ窯
多治見市教育委員会 -
美濃焼流通の変遷(1)
-
美濃焼流通の変遷(2)
-
美濃焼取締所設置
-
美濃焼物取締所開設後の三都への瀬戸焼美濃焼流通のしくみ
妻木氏領の美濃焼生産
上郷妻木氏と下郷妻木氏に支配された江戸時代後期の妻木村は磁器生産が盛んで、安政6年(1859)の窯株調べにおいて上郷下郷合わせて12株と記録され、そのうち10株が下郷にあった。
江戸後期、全国的に財政難で苦慮する領主が多かったが、妻木も例外ではなく、財政再建の頼みとして磁器生産に期待がかかった。上郷妻木氏の領地経営を預かる陣屋(代官所)日東千左衛門は嘉永5年(1852)、幕府の番町御薬園から御用焼を受注することに成功する。このほか妻木では、水戸藩を介して江戸で製品を売り捌くルートを開拓するなど、西浦円治を介さない美濃焼販売で利益をあげる方法が試みられていた。
熊谷吉兵衛の生家は妻木村の下郷妻木氏の領内にあり、父久米右衛門は名主を務め、地域の窯業関係者の取りまとめ役も担っていた。吉兵衛が生まれたのは、ちょうど美濃で磁器生産が始まり、江戸での需要により美濃焼の生産量が増加し、活況を呈し始めた頃だった。吉兵衛の父も共同の登窯で磁器生産を行い、天保12年(1841)には下郷妻木氏の地頭所から窯株の許可を受けている。
-
染付富士形銚子
幕末(19世紀中頃)
妻木八幡神社 -
妻木・神宮窯採集品
江戸後期~明治初期(19世紀)
土岐市美濃陶磁歴史館 -
窯株許可書
天保12年(1841)
Ⅰ. 陶磁器デザイナーとして
日根野作三との出会い
昭和26年(1951)、多治見の太洋陶園に入社した中上は絵付けの仕事に携わった。そこで、陶磁器デザイナー日根野作三(1907-84)と出会う。日根野は、いち早くその才能に気づき「芸術のセンスの大元を養うのは西洋画」であるとして、中上の感性のルーツを高山時代に見出した。
この頃日根野は、昭和22年(1947)に設立された日本陶磁振興会に参加したことを機に、全国の陶磁器産地に窯業指導に訪れていた。機械化・量産化が進む時代の一端で、日根野は手仕事による陶磁器生産の重要性を説く。日根野によって各地にもたらされたクラフトデザインの精神は、美濃の作り手たちにも共感を得る。太洋陶園の安藤秀二や、のちに中上が陶磁器デザイナーとして活躍する知山陶苑の安藤知山ら、日根野に影響を受けた作り手に囲まれながら、中上は創作の世界を広げていく。
-
日根野作三
昭和28年(1953)多治見にて
画像提供:三重県立美術館 -
上絵皿
日本陶磁振興会
(絵:日根野作三)
昭和24年(1949)頃
土岐市美濃陶磁歴史館 -
赤楽茶碗
日根野作三
土岐市美濃陶磁歴史館
太洋陶園でのしごと
太洋陶園は上絵付を専門に行う製陶所で、漆蒔と呼ばれる技法を用いる製品を得意とした。一方で、G ペンを用いて文様を描く「ペン描き」と呼ばれる上絵技法が日根野によってもたらされ、洋皿に和風の絵を施す内地向けの製品もつくるようになる。
ここでの中上は、従来の漆蒔製品の絵付けの仕事に加え、同社にとっては新技術であるペン描きの絵付けにも携わった。日根野によるペン描きのデザイン案を自身でアレンジして製品サンプルをつくっていったという。画一的な文様を描く職人の世界にまだ染まりきらない中上の描く線を、日根野は評価し伸ばそうとした。中上の描く自由な線は、この頃日根野に招かれ美濃での窯業指導に加わった陶磁器デザイナー 澤田米三(痴陶人)にも評価されたという。
-
上絵皿
太洋陶園(絵:中上良子)
昭和26-30年(1951-55)
多治見市美濃焼ミュージアム
知山陶苑でのしごと
昭和30年(1955)、中上は日根野を介して土岐市下石町にある知山陶苑に入社した。この頃の知山陶苑は、陶磁器デザイナーとして活動していた澤田米三が所属し、知山、日根野、澤田の三者の連携によって、業界を驚かせるようなデザインの製品を次々と生み出す企業だった。そこで中上が主に手掛けたのは、銅版転写の文様デザインである。銅版転写は、文様を彫り込んだ銅版を刷って絵具を版から紙に写し、それを器面に写すという絵付け技法で、量産に適していた。それまで、職人の手仕事による絵付けを主体としていた同社にとって、銅版転写の導入は新たな展開だったと考えられる。知山陶苑の銅版デザインのほとんどは中上が担い、やがてそれが同社の展開する製品の中核となっていった。ここでの仕事が中上を陶磁器デザイナーにし、仕事の幅を広げていく足掛かりとなっていった。
-
知山陶苑の仕事場
-
銅版茶器セット
知山陶苑(銅版:中上良子)
昭和30-40年代(1955-70)
土岐市美濃陶磁歴史館 -
銅版モーニングセット
知山陶苑(銅版:中上良子)
昭和30-40年代(1955-70) -
銅版転写紙
中上良子
昭和30-40年代(1955-75)
デザインの評価とフリーデザイナーとして
中上が知山陶苑で手掛けた銅版デザインは、やがて評価を得るようになる。昭和36年(1961)には、製品図案が第4回輸出陶磁器デザインコンクールで中小企業庁長官賞を受賞。同41年には、中上デザインの銅版転写を施したコーヒー碗皿がグッドデザイン賞を受賞した。輸出陶磁器デザインコンクールには、知山陶苑から継続して出品を行い、中上ら所属デザイナーが受賞や入選を繰り返した。
また、中上は知山陶苑の仕事のかたわら、日根野を介して個人で仕事を請け負うようにもなる。昭和33年(1958)には、新設された土岐市陶磁器試験場で日根野とともに講師に任命され30年以上務めた。同40年頃には伊奈製陶(常滑)や香蘭社の製品デザインに関わり、香蘭社では知山陶苑で手掛けたような細やかな銅版デザインを提供した。
-
銅版皿
知山陶苑(銅版:中上良子)
昭和36年(1961)頃 -
銅版コーヒー碗皿
知山陶苑(銅版:中上良子)
昭和40年(1960) -
銅版紅茶碗皿
香蘭社(銅版:中上良子)
昭和40年代(1965- )
第2部 もう一つの戦後、美濃
小山冨士夫が美濃と関わりを持った時代は、第二次世界大戦をはさんで日本が大きく揺れ動いた激動の時代だった。美濃の主産業である窯業にももれなく戦争の影響が及ぶ中、小山とは異なるアプローチで美濃に関わった人物に陶磁器デザイナーの日根野作三(1907-84)がいる。美濃と出会った日根野は、自身が信じるクラフトデザインによって、戦後の美濃窯業界の未来を切り拓こうとする。30年にわたり美濃焼の活路を模索した日根野の活動は、小山が関わりを濃くしていった美濃のもう一つの側面を見せてくれる。
第2部では、日根野の美濃、特に土岐市での活動を軸に、昭和の美濃窯業界の様子をみていきたい。
-
日根野作三 多治見にて
1953年2月
序 日根野作三と美濃
日根野の美濃との関わりは、昭和22(1947)年、実業家川崎音三の出資で「日本陶磁振興会」が組織され、小山冨士夫、荒川豊蔵らとともに召集されたことに始まる。この会の趣旨は、生活物資の乏しい戦後日本における陶磁器の需要激増を受け、粗製乱造が常態化した陶磁器産業を憂い、「輸出陶磁器の刷新と国内生活必需品の純化」を志すというものだった。
戦前、山茶窯製陶所(瀬戸)や商工省陶磁器試験所(京都)、佐那具陶磁器研究所(伊賀)で意匠研究・開発に携わり、陶磁器デザイナーとして、あるいは研究者として自身の哲学を構築した日根野は、この会の趣旨に賛同し加わった。小山は瀬戸、日根野は京都、信楽、四日市を担当。間もなく荒川豊蔵から美濃の担当も引き継ぎ、指導者として各地に赴いた。
-
呉須動物戯画鉢
日根野作三
佐那具陶磁器研究所
1942年頃
多治見市美濃焼ミュージアム
【前後期】 -
上絵皿
日根野作三
日本陶磁振興会
1949年頃
多治見市美濃焼ミュージアム
【前後期】 -
日本陶磁振興会趣旨並会則
日本陶磁振興会
1947年
多治見市美濃焼ミュージアム
【前後期】
Ⅰ 同志、安藤知山との出会い
日根野は担当した地域で、それぞれの製陶所が持つ特性や技術に応じた指導をするとともに製品デザイン画を何枚も描いた。このデザイン指導に通底した思想はクラフトデザインの重要性であった。日根野はクラフトを「手工を主とし近代感覚を持った現代の生活用具」と定義づけ、人の手がつくり出す陶磁器が市井の人々の生活を潤すと信じた。この思想に共鳴したのが、下石町(土岐市)で製陶所を営む安藤知山(1909-59本名知治)である。美濃窯業界の行く末に思いを巡らす広い視座を持った知山と出会い、意気投合した日根野はかつて縁のあった澤田米三(痴陶人)や澤村慈郎、加藤仁、中上良子ら才ある人々を次々と呼び寄せ、美濃での活動を充実させていった。昭和27(1952)年、日根野と知山はクラフトデザインにこだわった製品づくりと、担い手育成のため「小谷陶磁器研究所」を設立。知山と日根野を中心とした取り組みは窯業界を背負う作り手たちを着実に輩出していった。
引用文献:日根野作三 1969 『20cy後半の日本陶磁器クラフトデザインの記録』光村推古書院
-
デザイン帳
日根野作三
1950~61年
多治見市美濃焼ミュージアム
【前後期】 -
安藤知山
『知山抄』より転載
【前後期】 -
獅子牡丹文三段重
安藤知山
1930~40年代
【前後期】 -
ベリーセットのうち盛皿・取皿
知山陶苑
1950年代
土岐市美濃陶磁歴史館(左)
【前期】 -
タタキ土瓶
知山陶苑
1950年代
土岐市陶磁器試験場
【前期】 -
酒器セット
知山陶苑
1950~60年代
【前期】 -
ベリーセットのうち盛皿・取皿
知山陶苑
1950年代
土岐市美濃陶磁歴史館(左)
【後期】 -
銅版土瓶
知山陶苑
1950年代
【後期】 -
伊羅保釉ビアカップ
小谷陶磁器研究所
1951~58年
土岐市陶磁器試験場
【前期】 -
陶製ドアノブ
小谷陶磁器研究所
1951~58年
土岐市陶磁器試験場
【前期】 -
粉引卓上小品/掛け分け卓上小品
小谷陶磁器研究所
1951~58年
土岐市陶磁器試験場
左:【前期】 右:【後期】
-
低下度釉銘々皿
小谷陶磁器研究所
1951~58年
土岐市陶磁器試験場
【後期】 -
灰釉花器
小谷陶磁器研究所
1951~58年
土岐市陶磁器試験場
【後期】 -
印花型/ゴム印/秤
小谷陶磁器研究所
1951~58年
土岐市陶磁器試験場
【前後期】 -
小谷写真
左:兎窯の前で 1952年頃
土岐市陶磁器試験場提供
右:小谷にて 1954年7月
【前後期】 -
取り壊し直前の小谷陶磁器研究所
2004年
小寺克彦撮影
【前後期】
Ⅱ 広がるクラフトデザインの精神
昭和30(1955)年、町村合併を経て土岐市が成立し二宮安徳(1904-86)市長による市政が始動した。二宮は美濃焼を産業、歴史、文化といった様々な側面から見通した施策を打ち出し、その中に陶磁器試験場設立があり美濃陶芸村構想があった。
昭和33年に土岐市陶磁器試験場が完成すると場長に安藤知山が就任、日根野や加藤仁、中上良子らが講師や技術吏員となり、小谷陶磁器研究所の役割はここに移行した。デザインの力で切り拓く美濃焼の未来に心を躍らせた矢先、同34年に知山が急逝する。同志を失った日根野だが、試験場をはじめとする指導はなおも精力的に行い立ち止まることはなかった。
昭和30年代以降、日根野に影響を受けた美濃の作り手たちは「クラフトミノ」や「みの工芸」といった有志のグループを立ち上げ活動するようになり、また、指導先の製品にグッドデザイン賞など評価を受けるものが出てくる。日根野の長年にわたる地道な窯業指導は、美濃の作り手たちにクラフトデザインの思想を確かに波及させていった。
-
銀彩皿
土岐市陶磁器試験場
1958年
土岐市陶磁器試験場
【前期】 -
ファミリー・サークルセットのうち鉢・水注
土岐市陶磁器試験場
1962年
土岐市陶磁器試験場
【後期】 -
急須
知山陶苑(クラフトミノ)
1958~60年代
多治見市美濃焼ミュージアム
【前期】 -
土瓶
日本窯業(クラフトミノ)
1958~60年代
多治見市美濃焼ミュージアム
【後期】 -
青白磁鉢
快山窯
1950~60年代
多治見市美濃焼ミュージアム
【前後期】 -
焼〆鉢
中島正雄
1950~60年代
多治見市美濃焼ミュージアム
【前後期】 -
シルクスクリーン扁壺
知山陶苑
1959~60年代
【前期】 -
銅版カップ&ソーサー
知山陶苑
1965年
【後期】 -
ストーンウェアディナーセット
昭和製陶
1950~60年代
多治見市美濃焼ミュージアム
【前期】 -
ストーンウェアティーセット
光洋陶器
1964~68年
多治見市美濃焼ミュージアム
【後期】 -
茶器セット
加藤仁
1950~60年代
多治見市美濃焼ミュージアム
【後期】 -
エマイユ(七宝)額
中上良子
【前期】 -
花生
加藤摑也
1950~60年代
多治見市美濃焼ミュージアム
【前期】 -
急須
伊藤慶二
1960年代
多治見市美濃焼ミュージアム
【後期】 -
試験場写真
左上:土岐市陶磁器試験場
左下:第1回試作品展
1958年
土岐市陶磁器試験場提供
右:土岐市陶磁器試験場にて
【前後期】 -
有志グループパンフレット
左:「クラフトミノ」
1958~59年
右:「みの工芸」
1961年
多治見市美濃焼ミュージアム
【前後期】
終 日根野と昭和の美濃窯業
昭和53(1978)年、日根野は知山陶苑で倒れる。美濃での指導を開始して30年の間に、経済成長とともに窯業界はさらなる機械化・量産化が進んだ。一方、日根野によってクラフトの思想を受け取った陶芸家が育ち、製陶所も育った。日根野の周りには、ものづくりへのエネルギーに溢れる人々が集まり、直接、間接に影響を受けたものは数多くいる。そして、現在の美濃窯業界を見渡すと、かつて日根野の言葉を理解し共感した者たちが名を馳せ、美濃焼の価値をつくり、次代に繋ごうとしている。日根野は、指導先での製品・作品にその名を残すことはなかった。だが、その思想に触れた作り手たちが、それぞれの立場で多層的にものづくりに励み、昭和の美濃窯業の歴史をつくってきた様子が浮かび上がってくる。
参考文献・凡例
【主要参考文献】
第1部
朝日出版事業本部文化事業部 2003 『陶の詩人 小山冨士夫の眼と技』
乾由明・林屋清三編 1992 『日本の陶磁』現代扁第2巻 中央公論社
小山冨士夫 1965 「批評家の作陶」『芸術新潮』2月号
小山冨士夫 1974 「日本のやきもの、世界のやきもの」『日本のやきもの』読売新聞社
小山冨士夫 1977 『小山冨士夫著作集(上)中国の陶磁』朝日新聞社
塚本快示 1976 「小山先生と花の木の家」陶説275
二宮安徳 1976 『市長の手帖』土岐市役所幹部会
里文編 1981 『小山冨士夫の世界』
第2部
阿部聖 1997 『痴陶人』汐文社
回顧展実行委員会 1978 『知山抄』
加藤仁 2003 『小谷陶磁器研究所』
加納志貴 2000 『下石陶磁器工業協同組合五拾年史』下石陶磁器工業協同組合
唐澤昌宏 2007 「日根野作三の足跡-瀬戸・美濃を中心として-」『日根野作三足跡展』(財)岐阜県陶磁資料館
髙満律子 2005 「小谷陶磁器研究所展」『セラ・パ』Vol.6
公益財団法人日本セラミックス協会 1962 『窯業協会誌』70巻796号
日根野作三 1969 『20cy後半の日本陶磁器クラフトデザインの記録』光村推古書院
日根野作三 1979 『陶磁器デザイン概論』岐阜県陶磁器工業協同組合連合会
【凡例】
- このページは、土岐市美濃陶磁歴史館特別展「小山冨士夫と美濃-昭和の窯業界のあゆみとともに-」のバーチャル展覧会である。
会期:(前期)2021年9月17日~12月5日、(後期)2021年12月9日~2022年2月13日
コロナウイルス感染症拡大により、前期の会期が10月1日~12月5日に変更された。
前期と後期で展示作品の一部の入れ替えを行った。
- 各作品写真のキャプションは、作品名、制作者、窯名(生産地)、制作年代、所蔵者の順に明記した。ただし、所蔵者は公的機関及び団体に限り明示した。
- 掲載資料は必ずしも展示の順序と一致しない。また、展示しているが掲載しない資料がある。
- 解説文の執筆は当館学芸員が行い、第1部を春日美海、第2部を鍋内愛美が担当した。
- 掲載写真の無断転載を禁ずる。
3.平成の発掘調査で明らかになったこと
新たな試みに挑む元屋敷の陶工たち -窯を作り変えながら美濃桃山陶の生産へ-
操業当初(16世紀後半)は、元屋敷の陶工集団は東濃地域の他窯と同じく大窯期従来の製品を生産していましたが、16世紀末以降になると数年という短い期間で築窯と改築を繰り返し、それに合わせて黄瀬戸・瀬戸黒・志野などの流行の茶陶製品である「美濃桃山陶」を作り出します。その後、17世紀初頭に当時の最新式の窯「連房式登窯」を他窯に先駆けて導入し、より一層茶陶生産に特化し、多種多彩な織部を世に送り出しました。
-
操業年表
-
元屋敷陶器窯跡遺構配置図
なぜ流行の商品を生み出すことができた? -美濃桃山陶が誕生する背景-
短い期間で製品の種類が移り変わることから、元屋敷の窯主(経営者)は、京都などの商人を介して顧客のニーズを取り入れる、今で言う「マーケティング戦略」に長けており、またそれを実現できる技術を持った優秀な職人を多数抱えていたと考えられます。当時も現在と同じで、経営者がいかに他の窯と差別化を図り、自社のブランド力を高めるかを考えていたことがうかがえます。
流行の仕掛け人「やきもの問屋の商人」 -大消費地「京」にみる美濃桃山陶-
当時、京都の三条通りには「せと物や町」と呼ばれる、複数のやきもの問屋が軒を連ねる町筋がありました。この地区を発掘調査した結果、問屋毎で扱うやきものの産地や器種が異なっていたことが分かりました。その中でも元屋敷の製品は、「中之町」の商人が主に取り扱い、1回で焼成した製品を全て買い取る「窯買い」をして、店の裏庭で製品の選別を行っていたことが明らかとなりました。
-
京都三条通り「せと物や町」で出土したやきもの
元屋敷東1号A窯の製品
従来から大窯で生産されていた天目茶碗、皿類、擂鉢を主体とし、この3器種で生産量の約90%を占めています。その中で、半筒形を呈する茶碗や向付といった新たな器形が少量生産されるようになりますが、この背景には、「茶の湯」文化の浸透によって生まれた新たな価値観がやきものにも影響を与えたためと考えられます。
-
元屋敷東1号A~C窯
窯体写真 -
東1号A窯出土品
-
鉄釉天目茶碗
東1号A窯 -
灰釉丸皿
東1号A窯 -
錆釉擂鉢
東1号A窯 -
鉄釉向付
東1号A窯
ここが見どころ!天目茶碗 -唐物へのあこがれ-
美濃窯では、15世紀中頃から中国産を本歌(ほんか)に天目茶碗の模倣が始まります。形状や釉薬はもちろんのこと、高台脇の露胎(ろたい)部分にも工夫を凝らしています。中国産は胎土に鉄分が含まれており露胎部分が黒く発色することから、美濃窯では錆を塗って本歌に近づけています。
-
鉄釉天目茶碗
東1号A窯
ここが見どころ!半筒碗 -高麗茶碗の影響?-
腰に丸みがあり胴部が真っ直ぐ立ち上がる形状や全面施釉を意識した施釉法は、高麗茶碗に系譜が求められます。高麗茶碗の記録は16世紀前半の茶会記に見られるようになり、16世紀中頃から多くなるため、その動きに合わせ美濃窯でも作られるようになったと考えられます。
-
鉄釉半筒碗
東1号A窯
元屋敷東2号窯の製品
16世紀末に入ると、生産量は少ないながらも、後に美濃桃山陶と呼ばれる黄瀬戸・瀬戸黒・灰志野といった新しい流行の製品が生産されます。新たに作られるようになる器種も登場し、従来からある器種にも新しいスタイルが見られるようになります。また、成形技法にロクロ成形後型打ちして器形を整える手法が始まります。
-
元屋敷東2号窯
窯体写真 -
東2号窯出土品
-
黄瀬戸大鉢
東2号窯 -
瀬戸黒茶碗
東2号窯 -
灰志野向付
東2号窯
ここが見どころ!内禿皿 -灰釉丸皿の廉価版-
灰釉の丸皿は中国産の白磁や染付皿を模倣しており、全面に釉薬が施されています。全面に施釉された皿は、溶着する可能性が高く製品同士を重ねて焼くことができないため、美濃窯の陶工は内面の釉薬を環状に拭った「内禿皿(うちはげざら)」を開発して量産化を図りました。
-
灰釉内禿皿
東2号窯
ここが見どころ!象嵌技法 -海外の技法も導入-
灰釉の代わりに鉄釉を掛けた後に、刻線で文様を施し、その上に長石系の釉を盛ることを「象嵌技法(ぞうがん)」と呼びます。象嵌技法が用いられた製品では、韓国の高麗青磁や高麗茶碗が有名です。焼成している窯や出土量が少ないため、生産期間が短かったと考えられています。
-
鉄釉向付
東2号窯
ここが見どころ!黄瀬戸 -青銅器の模倣-
口が大きく開き、胴部の中程が細くなった形の花入は、鼓の胴の形に似ていることから「立鼓形(りゅうご)」と呼ばれています。中国の胡銅(青銅製)の花入を模していると考えられ、胆礬(たんぱん)や鉄彩などの加飾技法は使われておらず、胡銅の端正な佇まいをロクロで表現しています。
-
古銅象耳花入
参考写真
出典:ColBase
ここが見どころ!瀬戸黒 -楽茶碗の廉価版?-
瀬戸黒と同じ漆黒色の茶碗と言えば「楽茶碗」が挙げられます。手づくねで内窯と呼ばれる小規模な窯で1個づつ焼成しているため、大量に作ることは出来ません。どちらが先に作られたかは判断が難しいところですが、楽茶碗が人気が出たことから、商人が美濃で量産しようとしたのかも知れません。
-
黒楽茶碗
参考写真
出典:ColBase
元屋敷東1号B窯の製品
この窯に伴う明確な層は確認されておらず、物原上層の遺物の内1号A窯とC窯の遺物を除いたものをB窯の製品と想定しています。この時期には新たに志野(鼠志野を含む)の焼成が始まりますが、2号窯同様、茶陶製品の生産量はまだ少量で、志野は簡素な植物の文様が描かれた皿類を中心に鉢や向付が作られています。
-
東1号B窯出土品
-
志野向付
東1号B窯 -
鼠志野鉢
東1号B窯
ここが見どころ!志野 -白いやきものの変遷-
志野は当初、中国の白磁を意識し、文様のない無地の皿類を焼成していました。しかし、次第に中国の染付を意識した、文様を描いた製品を作るようになります。文様の描き方も簡素なものから多彩で自由闊達ものへ変化していきました。
-
志野端反皿
東1号B窯 -
志野丸皿
東1号B窯
元屋敷東3号窯の製品
黄瀬戸・瀬戸黒が姿を消し、志野の鉢や向付などの茶陶製品が全体の約50%以上を占めるようになります。志野には草花、樹木、山水などの具象的な文様が施され、ロクロ成形の後体部を手で押えたり、型打ちしたものが量産されます。また、織部黒や美濃唐津、織部茶入、矢筈口水指といった新たな器種や種類が登場します。
-
元屋敷東3号窯
窯体写真 -
東3号窯出土品
-
志野向付
-
志野向付
-
織部黒茶碗
東3号窯 -
織部茶入
東3号窯 -
志野水指
矢筈口
東3号窯
元屋敷東1号C窯の製品
この時期も志野の生産が主体ですが、平面形が扇面形など具象的なものや、歪みのある沓形碗が現れます。また、向付の口縁部などに檜垣や列点などパターン化した文様が密に施されるものや、鼠志野の生産量が増加し、後の青織部に繋がる掛け分けによる施釉技法の大鉢が生産されるようになります。
-
東1号C窯出土品
-
志野向付
扇面形
東1号C窯 -
織部黒茶碗
東1号C窯 -
志野大鉢
列点等のパターン化した文様
東1号C窯 -
鼠志野大鉢
掛け分け
東1号C窯
元屋敷窯の製品
他の窯が大窯で志野を中心に生産していた頃、元屋敷ではいち早く登窯を導入し、織部を量産します。様々な器種を生産する中で、特に沓形碗や鉢、向付などの茶陶製品を主体に焼成しています。その他、新たな施釉及び成形技法が取り入れられ、前代と比べより一層色彩が豊富で造形豊かな製品が作られるようになります。
-
元屋敷窯
窯体写真 -
元屋敷窯出土品
向付 -
元屋敷窯出土品
織部黒・黒織部 -
黒織部茶碗
元屋敷窯 -
青織部向付
元屋敷窯 -
鳴海織部向付
元屋敷窯 -
赤織部向付
元屋敷窯
ここが見どころ!窯道具-溶着資料から分かること-
製品同士がくっついた溶着資料から、製品を重ねる組み合わせや、製品の間に使う窯道具に様々な種類があったことが分かります。しかし、注意深くみていくと、窯道具の使い方に一定の規則性が認められるため、当時の陶工がルールをもって製品を焼いていたことが伺えます。
-
溶着資料
志野向付2枚と志野丸皿1枚が溶着
ここが見どころ!織部黒 -陶工の引き出し忘れ?-
窯の焼成中に引き出して急冷させることで漆黒色を出すのが織部黒や黒織部ですが、窯内にそのまま置いておくと天目茶碗と同じ茶褐色になります。出土品の中に含まれる茶褐色の陶片は、恐らく陶工が引き出し忘れたのか、引き出す途中で窯内に落としたものだと考えられます。
-
黒織部茶碗
引き出し忘れ
元屋敷窯
ここが見どころ!向付 -腰部分に注目!-
向付の成形方法には、①ロクロ、②ロクロ型打ち、③タタラ型打ちの3つがあります。①は円形が基本のため見分けやすいですが、②・③は形が変形しているため判断が難しいです。②は円形の器を型打ちするため腰部が丸くなり、③は粘土板を使うため腰部が直角になるのが特徴です。
-
志野織部向付
ロクロ
元屋敷窯 -
志野織部向付
ロクロ型打ち
元屋敷窯 -
青織部向付
タタラ型打ち
元屋敷窯
ここが見どころ!アレンジ -美濃唐津・美濃伊賀-
佐賀県の唐津焼風にアレンジした「美濃唐津」、三重県の伊賀焼風にアレンジした「美濃伊賀」は、雰囲気や見た目が本歌と非常に良く似ています。もしかしたら、三条通りのやきもの問屋の店先では、「唐津焼」、「伊賀焼」として売られていたのかも知れません。
-
美濃唐津向付
元屋敷窯 -
美濃伊賀水指
元屋敷窯
これも重要文化財?生産を支えた窯道具 -効率の良い生産を考え続ける-
窯道具は、製品を窯で『焼く』ときに使う道具です。製品を安定させて窯内に入れるために使うものや、製品を重ねるために使うものなど、場所や使い方、時代により大きさや形に違いがあります。一つでも多くの製品を「商品」にするため、いかに失敗を少なく、かつ限られた窯のスペースに沢山の製品を詰めるかを試行錯誤した結果、様々な窯道具が誕生しました。
-
元屋敷陶器窯跡で使われた窯道具
-
窯詰めの様子
織部の里公園 -
窯道具
-
エブタ
円形
東1号窯 -
エブタ
方形
元屋敷窯 -
茶碗を蓋に転用
元屋敷窯 -
焼台
東1号窯 -
ニギリ
東2号窯 -
色見
向付を転用
元屋敷窯 -
挟み皿
東2号窯
ここが見どころ!様々な匣鉢 -器種・器形に合わせて-
中に入れる製品の大きさや個数、器種によりサイズや形状にバラエティがあります。底部に穴が開けられたものには徳利を、底部が丸底のものには天目茶碗を、平面が楕円形のものには水注を入れています。当時の陶工がいかに効率の良い窯詰めを行い、多くの製品を焼成しようとしていたかが伺えます。
-
匣鉢
小皿用
東2号窯 -
匣鉢
天目茶碗用
東3号窯 -
匣鉢
水注用
東3号窯 -
匣鉢
大鉢用
東3号窯 -
匣鉢
徳利用
元屋敷窯
ここが見どころ!様々なトチン類 -失敗品を少なくする-
製品同士や製品と匣鉢がくっつかないよう、間に挟んで使うトチンやピン類は、製品の種類や大きさにより、サイズや形状にバラエティがあります。その中でも、三又トチンや足の長い足付板トチンは、多種多彩な織部製品を生産していた元屋敷窯にしか見られない専用の窯道具です。
-
輪トチン
東2号窯 -
輪トチン
東3号窯 -
輪トチン
東1号窯 -
円錐ピン
東3号窯 -
円錐ピン
元屋敷窯 -
長脚ピン
東2号窯 -
足付板トチン
足が長い
元屋敷窯 -
足付板トチン
足が短い
元屋敷窯 -
三又トチン
元屋敷窯 -
不定形なトチン
東1号窯 -
不定形なトチン
元屋敷窯
元屋敷窯の廃窯と陶工のその後 -経験を積んで安定した生産へ-
元屋敷での全操業期間は僅か35年程で、その期間中に何度も築窯と改築が行われました。その理由は様々ありますが、窯の耐用年数の低さや、周辺の水が入り込みやすい地形にあると考えられます。それに対して、同じ陶工集団が元屋敷窯の廃窯後に築いた窯ヶ根窯は、数度の改築をしつつ同じ窯を70年ほど使い続け、織部製品や新しいスタイルの「御深井釉製品」を生産し、元屋敷の跡地は検品などを行う場として使われました。
第2章 西浦屋と吉兵衛
西浦屋へ奉公した頃
二代円治は文政7年(1824)頃から美濃焼の仲買を開始し、大阪、江戸の大市場への参入を目論んでいた。吉兵衛が西浦屋へ奉公したのは、西浦屋が美濃焼の仲買を本格化させた頃だった。そして、二代円治が美濃焼物取締役に就任する頃には、吉兵衛は二代円治の甥で養子の道助(後の三代円治)に付き従い、大阪や江戸を行き来して西浦屋の商売拡大に励んでいた。
-
三代円治と吉兵衛―大利事件(1)
-
三代円治と吉兵衛―大利事件(2)
江戸堀留店開店―吉兵衛、江戸へ
弘化3年(1846)、西浦屋は大阪で陶磁器問屋が集まる西横堀瀬戸物町に支店を開店、翌年には日本橋堀留町に支店(江戸堀留店)を開店し、多治見本店を含めた三店舗体制を整え、西浦屋は美濃焼広域流通を一手に掌握する。そして、吉兵衛は西浦屋の要である江戸支店の命運を託され、支配人として江戸へ派遣される。
4名の店員から始まった西浦屋江戸堀留店は吉兵衛の采配により急成長を遂げ、2年後には従来の江戸瀬戸物問屋から妬みを買って訴えられるほどになっていた。開店から20年を経た頃、取扱い商品は美濃焼に加えて、瀬戸、京、信楽、肥前にまで広がり、取引範囲も関東一円から東北の太平洋側一帯におよぶ大店へと成長し、万延元年(1860)には開港した横浜で外国向けの取引も開始している。
-
吉兵衛、江戸へ出る
-
妻の死と再婚
-
安藤対馬守替地一件(1)
-
安藤対馬守替地一件(2)
東京堀留店と二代吉兵衛
明治4年(1871)頃、多治見で三代円治が隠居すると、側近として苦楽を共にし57歳になっていた吉兵衛も隠居、東洲と名を改める。多治見の西浦屋は四代円治が継ぎ、東京堀留店の支配人を継いだのは、吉兵衛の養子である二代吉兵衛(辰之助)だった。
辰之助が支配人を受け継いだ後も堀留店は西浦屋支店として継続する。四代円治は、明治13年(1880)に多治見で販売会社「濃陶社」を設立、翌年に東京堀留店も会社組織とする。社長は五代円治、支配人二代吉兵衛で、資本金14,500円のうち2,000円を二代吉兵衛が負担している。
さらに2年後の明治16年、堀留店は西浦家から二代吉兵衛に経営権が譲渡され、西浦家は堀留店の株を所持しつつも、東京での陶磁器販売業からは事実上撤退する。東京では隠居後の吉兵衛(東洲)が深川和倉に居を移し、二代吉兵衛を支えていた。
-
幕末から明治時代初期の西浦屋の取引地域
-
東京堀留店譲渡書類
明治16年(1883)
未発表図集『魚の文様』
昭和34年(1959)、中上は54 枚にもわたり様々な魚を描いた。抽象・具象問わず、鉛筆やクレヨン、水彩、色紙など様々な表現で中上の世界が展開されている。図集のように束ねられたそれには、日根野による解説と評が付属する。それによると、この図集は日根野の依頼で『魚の文様』をテーマに中上が描いたものだという。出版に向けて昭和48年(1973)に日根野が編集した跡が残るが、未発表のまま終わった。誰の眼にも触れることなく眠ることとなった『魚の文様』だが、進んで表舞台に立つことをしなかった中上に代わり、日根野は中上の才能を世に示したかったのだろう。ここには中上の多彩な発想と表現が凝縮され、日根野の批評からは、日根野が中上の作品の何に注目し惹かれたのかが読み取れる。この図集の制作をきっかけにしてなのか、中上は生涯、魚をモチーフに作品をつくり続けた。
-
『魚の文様』原図・編集原稿
-
スケッチ
中上良子
昭和30年代前半頃
(1955-60) -
『魚の文様』(部分)
中上良子
昭和34年(1959) -
『魚の文様』(部分)
中上良子
昭和34年(1959)
【凡例】
このページは、土岐市美濃陶磁歴史館企画展「挑戦!重要文化財2,000点並べてみる」のバーチャル展覧会です。
会期:2024年1月7日(日)~3月31日(日)
・解説文の執筆は当館学芸員が行いました。
・現代作品以外の展示品は全て当館の所蔵品です。
・掲載資料は必ずしも展示の順序と一致しません。
・掲載写真の無断転載を禁じます。
第3章 石門心学と吉兵衛
石門心学との出会い
商人が賤しい存在とされた江戸時代、「石門心学」の開祖石田梅岩(1685~1744)は商人の利益を武士の俸禄と同じく正当なものと認め、その存在を肯定したことから、商人から支持される学問となった。
吉兵衛は、西浦屋の用務で江戸や大阪を行き来する中で石門心学に出会ったとみられ、江戸移住後は心学講舎「参前舎」の活動にのめりこむ。西浦屋江戸店支配人を務めながらも、安政2年(1855)には、参前舎主で師匠だった中村徳水に付き従い、三カ月弱にもおよぶ山形県庄内地方への心学普及の旅に出ており、そのときの記録が現在も山形県鶴岡市に残されている。西浦屋隠居後の明治9年(1876)、吉兵衛は参加前舎八代舎主に就任、著書の出版や講演などに励み、心学普及に心血を注ぐ。
-
石門心学教本『孝の道』版木
幕末~明治時代初期(19世紀) -
石門心学教本『孝の道』
幕末~明治時代初期(19世紀) -
中村徳水肖像
江戸時代後期(19世紀)
鶴岡市郷土資料館 -
「心学廻村日記」
荒井和水著
安政2年(1855)
鶴岡市郷土資料館
還暦記念の里帰り
明治7年(1874)、還暦を迎えた記念に吉兵衛は妻木へ里帰りする。そのとき、妻木に心学講舎「会友舎」を設立、近隣住民から広く入門を募り、当初名簿に名前を連ねたのは160人を越えた。
会友舎では一口3円で積金を募り、集めた会費を東京堀留店で運用し、活動資金や利子を捻出する仕組みが整えられた。会友舎の運営は熊谷家を継いでいた妹婿弥吉に託され、東京での資金運用は堀留店を引き継いだ二代吉兵衛が担った。妻木から東京へ美濃焼を発送、堀留店での売上金も会友舎の運営資金とされた。こうして、東京にいる吉兵衛と妻木の熊谷家は、美濃焼の販売や石門心学を通じ強い絆を持ち続けた。
-
『遠慮講規則並びに姓名簿』
熊谷東洲
明治7年(1874) -
会友舎陶磁器見本箱
明治時代(19世紀) -
錦絵(熊谷東洲詞)
明治7年(1874) -
『時辰儀説』
熊谷東洲著
明治10年
Ⅱ. エマイユとの出会い
安藤七宝店でのしごと
昭和37年(1962)頃、中上は日根野を介して名古屋の安藤七宝店にデザイン提供を行うようになる。日根野と安藤七宝店とのつながりは、日根野のデザイン帳を見る限りでは、少なくとも昭和28年(1953)には始まっている。昭和30年頃には、安藤七宝店が主として手掛けてきた伝統的な本七宝(有線七宝)と並行して、銀線を配しない比較的安価な「レリーフ七宝」と呼ばれる製品も展開されていく。レリーフ七宝では、銀線の代わりに銅板を裏から盛り上げることでモチーフの輪郭が示された。また、この頃同社では、銅板上を銀線や凹凸で区切ることなく釉の配色のみで絵画的にモチーフを表現する「エマイユ」の製品開発も行っていた。中上は、本七宝、エマイユどちらのデザインも手掛けたが、ここでエマイユの色彩に魅せられたことで日根野に技法を学び自身の制作へと歩みを進めていく。
-
レリーフ七宝
安藤七宝店
昭和30年(1955)頃 -
七宝花瓶
安藤七宝店
(デザイン:中上良子)
昭和39年(1964) -
七宝花瓶
安藤七宝店
(デザイン:中上良子)
昭和42年(1967) -
七宝デザイン図案
中上良子
昭和42年(1967)
彩と光 エマイユ作家として
昭和30年代後半頃から平成8年(1996)頃まで中上はエマイユの制作を行った。その間、個展を継続的に開催し、昭和46年(1971)頃には自宅でエマイユ教室を主宰、生徒とともに「エマイユ・シューレ」というグループを結成した。そして、昭和55年(1980)、フランスで開催された第5 回国際七宝美術ビエンナーレに初出品し、リモージュ市工芸会賞を受賞する。同展には25ヶ国650名が約800点を出品。このうち、150名・約200点が日本からの出品で、中上を含む3名が入賞したという。
中上のエマイユには、透明釉の下から覗く銅板の素地に細かな文様が彫り込まれ、銅版転写で培った技術が遺憾なく発揮されている。さらには、銅版転写では表現できなかった鮮やかな色の世界が中上の表現に加わった。「彩と光」を永遠のテーマとし、四季折々の光の変化や草花のきらめきを追求し続けた。
-
工房風景
-
エマイユ壁掛け
中上良子
昭和44年(1969)頃 -
エマイユ小皿
中上良子
土岐市美濃陶磁歴史館
(二宮コレクション) -
エマイユ額
中上良子
昭和39年(1964) -
エマイユ額
中上良子 -
エマイユ蓋物・小物入れ
中上良子 -
エマイユ小品
中上良子 -
エマイユ小品
中上良子 -
エマイユ未成品
中上良子 -
エマイユ制作道具・材料
-
フランスリモージュの国際七宝美術展会場で受賞作と
昭和55年(1980) -
国際七宝美術展出品者たちとの欧州旅行
昭和55年(1980)
第4章 明治時代の熊谷家と西浦家
熊谷家の製陶
明治時代に入ってからの熊谷家の製陶業は、実質、弥吉の娘婿の善兵衛(九代弥吉)が担っていたとみられる。善兵衛は絵付けを得意とし、「柏樹亭積峯」の号で作品を残している。窯名「一山」の裏印を施し、青磁や染付磁器の蓋付碗、湯呑、小皿などを制作、文様は非常に多彩だった。現在、素焼きに絵付けを施した状態の未製品が残り、そこからは善兵衛の絵付け技術の高さがうかがえる。
明治20年代後半には熊谷家は、善兵衛から息子(十代弥吉)へと代替わりし、製品も輸出用の白磁珈琲碗皿へと変化している。大正時代になると、陶器商へ転身をはかる。また、明治時代から大正時代にかけての熊谷家の分家では、青磁を得意とした熊谷鉄蔵や珈琲碗皿の貿易で事業を拡大させた中島玉吉が知られる。
明治23年(1890)、吉兵衛は東京において76歳の生涯を終える。浅草の菩提寺に15年程前まであった墓の台座には「西浦屋」と刻まれ、吉兵衛が生涯「西浦屋の吉兵衛」として生きたことを物語っている。
-
熊谷家の製品 染付磁器
明治時代前半(19世紀) -
熊谷家の製品 染付磁器
明治時代前半(19世紀) -
熊谷家の製品 青磁
明治時代前半(19世紀) -
熊谷家の製品 白磁珈琲碗皿
明治時代後半(19~20世紀) -
第3回内国勧業博覧会賞状
明治23年(1890)
熊谷弥吉(善兵衛)宛 -
熊谷家の製陶道具
明治時代(19~20世紀) -
梅渓図
森琴石
明治40年(1907)
明治時代の西浦家
東京堀留店を手放した四代西浦円治は、業態を陶磁器製造と貿易へと変化させていく。四代円治は、明治13年(1880)に販売会社「濃陶社」を設立、輸出向けの染付磁器の製造を市之倉の名工加藤五輔らに発注、明治20年(1887)には自宅前に上絵付工場を建設し、自家での製造に着手する。
明治22年、前年に家督を継いだ五代円治が上絵付工場を名古屋に移転し、西浦焼生産を拡大する。明治32年(1899)には、アメリカに多治見貿易会社ボストン支店を設立、本格的な海外進出へと大きな一歩を踏み出した。この頃、多治見の尾張坂に築かれた登窯で、西浦焼の代名詞ともいえる「釉下彩」の製品が産み出されている。
明治末年のボストン支店閉鎖の後、西浦焼の製造および貿易事業は廃業に至る。
-
染付菜花文花瓶
明治時代前半(19世紀)
多治見市教育委員会 -
西浦焼釉下彩杜若文珈琲碗皿
明治時代後半(20世紀)
土岐市美濃陶磁歴史館 -
西浦焼上絵ティーセット
明治時代中頃(19世紀)
多治見市教育委員会 -
西浦焼釉下彩獅子文花瓶
明治時代後半(20世紀)
土岐市美濃陶磁歴史館 -
西浦焼釉下彩梅花文花瓶
明治時代後半(20世紀)
多治見市教育委員会
参考文献・凡例
【主要参考文献】
- 石川謙 1938 『石門心学史の研究』岩波書店
- 岩井美和/小木曽郁夫 2020 「西浦家のあゆみと美濃焼物~西浦家文書研究のために~」多治見市文化財保護センター研究紀要第14号
- 多治見市 1976 『多治見市史』窯業史料編
- 多治見市 1980 『多治見市史』通史編上
- 多治見市教育委員会 2016 『西浦家文書目録』
- 鶴岡市役所 1962 『鶴岡市史』上巻
- 三宅守常 1993 「明治心学と宗教行政―附、史料「心学社中教導職拝命一覧」」『明治聖徳』復刊第10号
- 山形万里子 2008 『藩陶器専売制と中央市場』日本経済新聞社
【凡例】
- このページは、土岐市美濃陶磁歴史館企画展『妻木の熊谷吉兵衛 美濃の大陶商「西浦屋」を支えた人」のバーチャル展覧会である。
- 会期:2022年11月19日~2023年2月26日
- 各作品写真のキャプションは、作品名、制作者、年代、所蔵者、画像提供者の順に明記した。ただし、所蔵者は公的機関及び団体に限り明示した。
- 掲載資料は必ずしも展示の順序と一致しない。また、展示しているが掲載しない資料がある。
- 解説文は当館学芸員の春日美海が執筆した。
- 掲載写真の無断転載を禁ずる。
Ⅲ. 美濃のクラフト運動と中上良子
昭和30年代、日根野が美濃を訪れるようになって10年ほど経つと、日根野のクラフトデザインによるものづくりの思想に影響を受けた作り手たちがグループを組んで活動するようになる。中上はこの動きにも加わり、昭和36年(1961)頃には「みの工芸」、同45年(1970)頃には「美濃グルッペ泥人」の一員となる。みの工芸の活動は長くは続かなかったようだが、三重県四日市の瀬栄陶器が主導するセイエークラフトというグループと連携し、京都の走泥社ともつながった。一方、美濃グルッペ泥人は昭和60年(1985)頃まで13人のメンバーで活動した。日根野が顧問、安藤光一が会長を務め、ディレクターとして安江賀明が作品販売を担った。日根野が次代のクラフトマンと認めたこのメンバーの中でも、中上は独自のエマイユの世界をひらいていくのだった。
-
『美濃グルッペ泥人』
美濃グルッペ泥人
昭和49年(1974)
土岐市美濃陶磁歴史館 -
彩雲(皮剥手)茶碗
中島正雄(1921-2014)
土岐市美濃陶磁歴史館 -
天目酒器
加藤仁(1926-2004)
土岐市美濃陶磁歴史館 -
佛
安藤光一(1934-2022) -
大鉢
伊藤慶二(1935- )
昭和43年(1968)
土岐市美濃陶磁歴史館 -
泥人メンバーと加藤静男宅のバラ園で
左から伊藤慶二、中上良子、日根野作三、熊沢輝雄
参考文献・凡例
【参考文献】
- 株式会社安藤七宝店 1961 『七宝焼』
- 岐阜県陶磁器上絵加工工業協同組合連合会 1984 『美濃上絵陶業30 年史誌』
- (財)岐阜県陶磁資料館 2009 『日根野作三デザイン帳』DVD
- (財)日本陶磁器意匠センター 1973 『陶磁器デザインコンペティション1 輸出陶磁器デザインコンクール 第1 回-第16 回』
- 七宝芸術社 1980 『七宝芸術』第13 巻11 号
- 多治見市 1987 『多治見市史 通史編 下』
- 泥人事務局 1974 『美濃グルッペ泥人』
- 林俊光 1977 『七宝の文様』 マリア書房
- 日根野作三 1969 『20cy 後半の日本陶磁器クラフトデザインの記録』 光村推古書院
- 日根野作三 1975 『日根野作三「楽」五拾碗』 土羊会
- 松岡未紗編 2019 「徳永富士子略年譜」 徳永富士子展実行委員会
- 瑞浪市陶磁資料館 2010 『金中製陶所略史』
- 公益財団法人日本デザイン振興会 「1966 年度GOOD DESIGN AWARD」 GOOD DESIGN AWARD 2022.4.1 https://www.g-mark.org/award/describe/26713(参照2022.6.24)
- 武蔵野美術大学 「版画表現」 造形ファイル 2009.6.20 http://zokeifile.musabi.ac.jp/categories/?cat=printmaking-representation(参照2022.6.26)
【凡例】
- このページは、土岐市美濃陶磁歴史館企画展「中上良子 陶磁器デザイナー・エマイユ作家として」のバーチャル展覧会である。
- 会期:2022年8月13日~11月13日
- 前期(~9/28)と後期(9/29~)で展示作品の一部の入れ替えを行った。
- 各作品写真のキャプションは、作品名、制作者・製造、制作年代、所蔵者の順に明記した。ただし、所蔵者は公的機関及び団体に限り明示した。
- 掲載資料は必ずしも展示の順序と一致しない。また、展示しているが掲載しない資料がある。
- 解説文は当館学芸員の鍋内愛美が執筆した。
- 掲載写真の無断転載を禁ずる。










































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































