土岐市文化プラザの線画 土岐市文化プラザの線画
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企画展『史跡整備完了記念~乙塚古墳とその時代~』

会期:2023年3月4日(土)~6月4日(日)

はじめに

土岐市泉町久尻に所在する飛鳥時代(7世紀前半)に造られた乙塚古墳と段尻巻古墳は、ヤマト王権による東美濃地方の支配の様子を考える上でとても重要な遺跡であることから昭和13年(1938)年12月14日に国指定史跡となりました。
土岐市では、両古墳を東美濃地域のみならず日本の宝として未来に向けて守っていくために令和元年度より史跡整備事業を進めてまいりました。その整備事業完了を記念し、本展では両古墳だけでなく、周辺の遺跡からの出土品や発掘調査の写真なども交えながら、乙塚古墳とその時代についてわかりやすくご紹介いたします。

土岐の領域と古墳の分布

乙塚古墳と段尻巻古墳が造られた飛鳥時代(7世紀前半)は、ヤマト王権によって各地方の領域再編が進み、律令国家へとつながる基礎が築かれた時代でした。東美濃地方には乙塚古墳の被葬者が治めた領域(後の刀支評・土岐郡)があったと考えられています。当時の領域名は不詳のため仮に【トキの領域】と名付けますが、その範囲は現在の多治見市(土岐川以南)、土岐市、瑞浪市に加え、恵那市と中津川市の大部分を包括する広大な領域でした。

  • 6~7世紀の古墳分布と地区の検討
    古墳分布から推測される領域内の各地区は、後に成立する行政区であるサト(五十戸/里/郷)の前身になったと考えられます。試みに平安時代に書かれた「倭名類聚抄」等から知られている土岐・恵那郡の郷名を当てはめてみると、概ね合致することがわかります。
  • トキの領域と古墳の分布

古墳時代のトキの領域

古墳時代(3世紀中~6世紀後)のトキの領域の様子は、発掘調査事例も少なくよくわかっていませんが、開発が遅れ地域一帯を支配する豪族もいない辺地だったとされています。古墳時代中期(5世紀)頃になると、戸狩荒神塚古墳(瑞浪市)が築かれ、一時的にある程度の力を持つ豪族もいたようですが、東美濃一帯は長らく可児の豪族の支配下にあったと考えられています。6世紀に入ると徐々に古墳が築かれるようになり、7世紀に入ると乙塚古墳が築かれます。乙塚古墳は首長墳と判断できる大型方墳のため、飛鳥時代に可児から分立し、トキの領域ができあがったと考えられます。

  • 土師器の出土状況(上林遺跡)
    土師器の多くは竪穴住居址の北東隅付近から出土しました。土師器周辺からは多量の炭化物も検出されていることから、火を用いる儀式に使用し、埋納されたと考えられます。その後、さらにS字甕を破砕する儀式が行われました。これらの一連の儀式は、おそらく住居の廃棄に関連する儀礼だったと考えられます。
  • 焼かれた住居の持つ意味(妻木平遺跡)
    土師器高坏は、食べ物を盛る器として用いた土器です。この高坏が出土した住居では、炭化した木材が多く確認されており、焼失した住居だったことがわかります。炭化材は、その位置や方向から壁材、および屋根を支える垂木であった可能性が考えられています。住居内からは、この土器以外のものがほとんど出土していないため、住居を廃棄する時に行う儀礼行為の一環として意図的に火を付けたと考えられます。なぜこの土器だけが残されたのかは不明です。
  • 年表

  • 集落の様子

    復元住居
    喜多町西遺跡
    多治見市
  • 住居址

    上林遺跡
    古墳時代前期(4世紀)
  • 土師器出土状況

    上林遺跡
    住居址内出土
    古墳時代前期(4世紀)
  • 土師器:S字甕・く字甕

    上林遺跡
    住居址内出土
    古墳時代前期(4世紀)
  • 土師器:器台・壺・鉢

    上林遺跡
    住居址内出土
    古墳時代前期(4世紀)
  • 焼失住居址

    妻木平遺跡
    古墳時代前期(4世紀)
  • 土師器:高坏

    妻木平遺跡
    焼失住居址内出土
    古墳時代前期(4世紀)

失われた古墳

古墳時代後期から飛鳥時代(67世紀)にかけて、トキの領域内でも古墳が爆発的に築かれるようになります。その総数は500基程度とされていますが、開発などにより失われ記録に残らなかった古墳も多々あると考えられるため、実際はもう少し多かったはずです。妻木平遺跡で見つかったSZ001(固有名なし)も全く知られていなかった古墳の一つです。トキの領域内には古墳が確認されていない地域も多くありますが、そういった地域でもまだ見つかる可能性があるのです。また、しっかりとした発掘調査が行われた古墳数もとても少ないため、今後の調査の進展が期待されます。

  • 古墳:SZ001

    妻木平遺跡
    飛鳥時代(7世紀)
  • 石室側壁・礫床石材

    古墳:SZ001
    妻木平遺跡
    飛鳥時代(7世紀)
    花崗岩
  • 須恵器:平瓶

    古墳:SZ001
    妻木平遺跡
    飛鳥時代(7世紀)

土岐市内最古の古墳

熊野神社3号墳は、古墳時代後期(6世紀前半)に築造された土岐市内最古の古墳(円墳)で、横穴式石室を持つ古墳としては東美濃地域最古でもあります。石室の形態は古いものの、採集された遺物は6世紀中頃から7世紀中頃のため、複数回の追葬があったと考えられています。トキの領域内における古墳時代後期(6世紀前~末)頃の古墳はおよそ20基と少なく、残りの480基あまりは飛鳥時代(7世紀前~中)の古墳です。この爆発的な古墳の増加は、新たな国家体制と身分秩序の浸透、そして仏教思想の影響による家族を重視した古墳祭祀の普及を示していると考えられています。

  • 土師器と須恵器の違い
    【土師器】
    弥生土器の系譜を受け継ぐ赤褐色の土器です。野焼き(焼成温
    度800~900度)で焼成されたためやや軟質でした。
    【須恵器】
    5世紀に朝鮮半島から制作技術が伝わった青灰色の陶質土器で
    す。窯(焼成温度1100度以上)で焼成されたため硬質でした。
  • 熊野神社3号墳

    古墳時代後期~飛鳥時代
    (6世紀~7世紀)
  • 須恵器出土状況

    熊野神社3号墳
  • 須恵器:

    熊野神社2号墳
    古墳時代後期~飛鳥時代
    (6世紀中~7世紀中)
  • 須恵器:長頸瓶

    熊野神社3号墳
    飛鳥時代
    (7世紀)
  • 須恵器:高坏・坏身

    熊野神社3号墳
    飛鳥時代
    (7世紀)
  • 土師器:甕

    熊野神社3号墳
    飛鳥時代
    (7世紀)

段尻巻古墳

段尻巻古墳は、乙塚古墳と同時期の円墳です。市内の他の同時期の円墳と比べても大きく、乙塚古墳に埋葬された豪族と関わりが深い有力者一族の墓に相応しいものです。石室内は部分的な発掘しか行われていないため、見つかっている副葬品は須恵器と土師器のみです。なお、乙塚古墳ではほぼ失われていた石室の礫床が、とても良好な状態で残っていました。

【墳丘の特徴】
円墳:直径23.9m、残存高4.1m
段築なし、葺石なし、周溝なし
【横穴式石室の特徴】
全長9.5m、疑似両袖式、玄門立柱石、まぐさ石
礫床、石材は主に花崗岩

 

  • 土師器長頸壺
    石室内の玄門付近から出土しました。とても丁寧に精製された粘土を用いており、表面も綺麗に整えられているため、入念に仕上げられたことがわかります。このような土師器の長頸壺は、近畿地方の古墳や集落遺跡での出土が知られていますが、岐阜県内では類例がなく、とても珍しい発見といえます。被葬者と近畿地方との強い関係性がうかがえる遺物です。
  • 発掘前の状況

  • 発掘後の状況

  • 割れた天井石

  • 石室の礫床

  • 石室内(整備後)

  • 墳丘(整備後)

  • 須恵器:フラスコ形瓶

    飛鳥時代(7世紀前)
  • 土師器:長頸壺

    飛鳥時代(7世紀前)
  • 土師器:長頸壺

    飛鳥時代(7世紀前)

乙塚古墳

乙塚古墳は、7世紀前半の大型方墳です。当時の大型方墳は、ヤマト王権と親しい地域の豪族に採用された特別な墓でした。乙塚古墳では墳丘の段築や葺石を省略する一方で、美濃国内の他の大型方墳と比べても同等以上の巨大な石室が造られています。石室内の再利用により副葬品はほぼ失われていましたが、土師器と須恵器の他、鉄製品片がわずかに見つかっています。

【墳丘の特徴】
方墳:南北27.4m、東西26.1m、残存高5.8m
段築なし、葺石なし、周溝なし
【横穴式石室の特徴】 全長19.2m(美濃地方最大級)
両袖式、胴張、玄門立柱石、まぐさ石
礫床、排水溝、石材は主に花崗岩

 

  • 石室の再利用
    乙塚古墳の石室は、古墳の祭祀が絶えた後、中世に差し掛かるまでは特に再利用されることはなく、平安時代末期から南北朝時代にかけて一時的に居住するといった短期的な利用があったようです。その後、安土桃山時代から江戸時代にかけて陶工たちが工房として利用し、工房としての利用が終わった後は、窯業に関連した信仰の場として現在に至るまで利用されてきました。
  • 焼成不良の須恵器
    乙塚古墳から出土した須恵器の中には焼成不良品がいくつも含まれています。一例として、比較的残りの良い高坏を展示しました。この高坏ほどではありませんが、実は鳥鈕蓋もやや焼成不良といえます。これらの製品は、猿投窯や美濃須衛窯といった近隣の大規模窯業地の製品ではありません。乙塚古墳近隣にある隠居山須恵器窯、清安寺須恵器窯など、在地産の可能性が考えられます。
  • 鳥鈕蓋
    鳥の形をした鈕が付いた蓋で、脚付短頸壺などの蓋として用いられました。鳥の種類は不明ですが、死者の旅立ちを鳥に託したものと考えられており、葬送儀礼のために特別に作られたものでした。乙塚古墳を含む24遺跡で発見されていますが、東海地方以外での出土は知られていません。全て合わせても38点しか見つかっておらず、とても希少な須恵器といえます。
  • 発掘前の状況

  • 発掘後の状況

  • 須恵器出土状況

  • 玄室の礫床

  • 石室入口(整備後)

  • 石室内(整備後)

  • 墳丘(整備後)

  • 施釉陶器

    安土桃山時代~江戸時代
    (16世紀末~19世紀前)

    施釉陶器:志野丸皿、御深井釉摺絵皿、御深井釉輪禿鉢、広東碗、腰錆茶碗
  • 山茶碗

    鎌倉時代(13世紀前~中)
  • 須恵器:横瓶か・甕

    飛鳥時代(7世紀前半)
  • 鏃・銙板・馬具

    鉄製
    飛鳥時代(7世紀前)
  • 土師器と須恵器

    飛鳥時代(7世紀前)
  • 焼成不良の須恵器

    高坏
    飛鳥時代(7世紀前)
  • 鳥鈕蓋の蓋部分か

    飛鳥時代(7世紀前)
  • 鳥鈕蓋

    飛鳥時代(7世紀前)
  • 鳥鈕蓋

    飛鳥時代(7世紀前)
  • 鳥鈕蓋の鳥

    飛鳥時代(7世紀前)

大型方墳の持つ意味

飛鳥時代(7世紀)の大型方墳は、ヤマト王権と親密な関係を持ち広域を治めた豪族が採用した特別な墓です。大型方墳の存在は広域を治めた豪族がいたことを意味し、その分布状況から当時の行政区域を推測することができます。当時の美濃国には、次の7つの領域があったと考えられています。

  • フワ(多芸郡、不破郡、安八郡)
  • モトス(大野郡、本巣郡、方県郡)
  • ムギ(山県郡、武芸郡)
  • カカミ(各務郡、厚見郡)
  • カモ(賀茂郡)
  • カニ(可児郡)
  • トキ(土岐郡、恵奈郡)
  • 飛鳥時代の7つの領域

土岐市内の古墳

土岐市内には、90基ほどの古墳が存在したことが知られています。それらは全て古墳時代後期から飛鳥時代(6世紀~7世紀)のものと考えられます。大半は円墳で、方墳はその可能性があるものを含めても4基ほどです。現在まで残っている古墳はおよそ40基しかなく、半数は既に宅地開発などにより失われています。学術的な発掘調査が行われた古墳は乙塚古墳、段尻巻古墳、妻木平遺跡SZ001などわずかですが、過去にいくつかの古墳から須恵器が採集されています。勾玉や直刀などの副葬品や人骨が見つかったという話も伝わりますが、モノの行方は不明というのが現状です。

  • 細野の飛鷹
    土岐市鶴里町細野にある堀切古墳からは、乙塚古墳の鳥とは異なる鳥が付けられた鳥鈕蓋が出土しています。この鳥は、鷹狩に用いた鷹の飛翔する姿と考えられており、鷹の鳥鈕蓋は堀切古墳のものを含めても4点しかありません。鷹狩の鷹を模していることから、堀切古墳の主も鷹狩に関係した人物だった可能性があります。飛鳥時代の細野は鷹の舞い飛ぶ里だったのかもしれません。
  • 須恵器:鳥鈕蓋(鷹)

    堀切古墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
  • 須恵器:脚付短頸壺

    堀切古墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
  • 須恵器:坏蓋と身

    堀切古墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
  • 須恵器:短頸壺・高坏・台付碗

    堀切古墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
  • 須恵器:台付短頸壺

    森下古墳
    飛鳥時代(7世紀中)
  • 須恵器:坏蓋と身・平瓶

    森下古墳
    飛鳥時代(7世紀中)

古墳の副葬品

古墳の副葬品には、勾玉・管玉・臼玉・小玉・切子玉などの玉類、耳環(金・銀・銅を用いたイヤリング)、武具(弓矢、剣、甲冑など)、馬具、刀子、銅鏡など様々なものがあり、須恵器や土師器も多く副葬されました。乙塚古墳の副葬品は石室が後に再利用された影響によりほぼ失われており、段尻巻古墳も土師器と須恵器がごくわずかに見つかっているのみです。近隣の古墳から見つかったこれらの副葬品は、当時の副葬品として一般的なものです。乙塚古墳はもちろん、段尻巻古墳の被葬者もこれらの古墳の被葬者より上位の人物と考えられるため、副葬品もより豪勢だったことでしょう。

  • 双龍環頭把頭
    大刀の握りの頭部につけられた装飾品で、6世紀後半から7世紀にかけて多くつくられました。環内に一つの玉をくわえて向かい合う2匹の龍が配されています。これは龍ではなく鳳とする見解もあります。頭部には3本の冠毛があるものの、角はありません。全身が表現されていますが、デフォルメにより一見して龍(鳳)とはわかりづらいデザインとなっています。
  • 鉄製品:馬具・鍔・柄縁金具・直刀・刀子・鏃

    ・大島1号墳
    古墳時代後期~飛鳥時代
    (6世紀末~7世紀初)
    ・南山3号墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
    瑞浪市陶磁資料館蔵
  • 直刀

    南山3号墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
    瑞浪市陶磁資料館蔵
  • 刀子

    南山3号墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
    瑞浪市陶磁資料館蔵
  • 南山3号墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
    瑞浪市陶磁資料館蔵
  • 土師器:甕、須恵器:坏身・有蓋高坏

    南山3号墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
    瑞浪市陶磁資料館蔵
  • 玉類

    ・大島1号墳
    古墳時代後期~飛鳥時代
    (6世紀末~7世紀初)
    ・南山3号墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
    瑞浪市陶磁資料館蔵
  • 管玉と臼玉

    大島1号墳
    古墳時代後期~飛鳥時代
    (6世紀末~7世紀初)
    瑞浪市陶磁資料館蔵
  • 勾玉(メノウ)

    南山3号墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
    瑞浪市陶磁資料館蔵
  • 勾玉(メノウ)

    南山3号墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
    瑞浪市陶磁資料館蔵
  • 玉類と耳環

    ・千田17号墳
    古墳時代後期~飛鳥時代
    (6世紀末~7世紀初)
    ・専行寺1号墳
    古墳時代後期~飛鳥時代
    (6世紀中、7世紀中~末)
    恵那市教育委員会蔵

    ・南山4号墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
    ・津島古墳
    古墳時代後期~飛鳥時代
    (6世紀末~7世紀初)
    瑞浪市陶磁資料館蔵
  • 三輪玉

    千田17号墳
    古墳時代後期~飛鳥時代
    (6世紀末~7世紀初)
    恵那市教育委員会蔵
  • 耳環(金環)

    専行寺1号墳
    古墳時代後期~飛鳥時代
    (6世紀中、7世紀中~末)
    恵那市教育委員会蔵
  • 耳環(銀環)

    津島古墳
    古墳時代後期~飛鳥時代
    (6世紀末~7世紀初)
    瑞浪市陶磁資料館蔵
  • 玉類・耳環・柄頭

    狐塚古墳
    飛鳥時代(7世紀前)
    多治見市教育委員会蔵

    専行寺1号墳
    古墳時代後期~飛鳥時代
    (6世紀中、7世紀中・末)
    恵那市教育委員会蔵
  • 双龍環頭柄頭(レプリカ)

    狐塚古墳
    飛鳥時代(7世紀前)
    多治見市教育委員会蔵

暮らしの器

東美濃地域では、古墳同様に集落遺跡の調査事例も少なく、実際の暮らしの様子はあまりよくわかっていません。しかし、器類は残りやすいため比較的様子がわかっています。調理には土師器を使い、食器や貯蔵用には主に須恵器を用いていました。当時の主食は米(うるち米)で、そのまま炊いたり雑穀を混ぜて粥や雑炊にもしましたが、甑を使って蒸したいわゆるおこわが食べられていました。この甑の登場により、煮る・焼くだけでなく蒸すという調理法が加わったため、魚、肉、野菜、山野草、木の実といった食材の食べ方、料理の幅に広がりが生まれました。

  • 土師器と須恵器

    権現遺跡
    飛鳥時代(7世紀)
    多治見市教育委員会蔵
  • 土師器:甑と長胴甕

    権現遺跡
    飛鳥時代(7世紀)
    多治見市教育委員会蔵
  • 甑の底穴

    権現遺跡
    飛鳥時代(7世紀)
    多治見市教育委員会蔵
  • 土師器と須恵器

    土師器:長胴甕・甑・甕・坩

    丸池遺跡
    古墳時代後期(6世紀前)
    恵那市教育委員会蔵
  • 土師器:甑と長胴甕

    丸池遺跡
    古墳時代後期(6世紀前)
    恵那市教育委員会蔵
  • 甑の底穴

    丸池遺跡
    古墳時代後期(6世紀前)
    恵那市教育委員会蔵
  • 土師器と須恵器

    丸池遺跡
    古墳時代後期(6世紀前)
    恵那市教育委員会蔵
  • 甑の使い方

土岐の領域のその後

トキの領域は乙巳の変(645年)後の政治改革「大化の改新」によって「刀支評」となり、大宝律令(701年)によって「土岐郡」へと改められました。その後、遅くとも8世紀中頃までに「土岐郡」と「恵奈郡」に分けられました。「刀支県主」を名乗る一族がいたことも知られており、評を治めた豪族との関連が考えられます。政治改革と仏教の普及などにより、7世紀末頃までに古墳はほぼ造られなくなり、評を治めた豪族は古墳の代わりに氏寺を建立するようになります。トキの豪族の氏寺と居館、評衙(役所)は未発見ですが、おそらく乙塚古墳の近郊、泉町域内にあったことでしょう。

  • 仏教文化の広がりを示す遺物:銅鋺
    銅鋺は、本来は仏具なのですが、古墳へ副葬されることもありました。これは古墳祭祀へ仏教が影響を及ぼした結果だと考えられています。大富西山1号墳出土の銅鋺(6世紀末~7世紀前)の原材料は、化学分析の結果から朝鮮半島北部産とされています。やや時代は下りますが、妻木平遺跡出土の須恵器鉢も仏具である金銅鉢を模したものです。金属製品は高価で誰もが使えたわけではないため、その代用品として須恵器や土師器の模造品も作られました。
  • 古代寺院の存在を示す遺物:瓦など
    飛鳥時代から奈良時代にかけて、瓦を使用する建物は寺院と一部の官衙(役所)に限られていました。隠居山須恵器窯では瓦に加えて、寺院で使用する水瓶なども生産されていることから、近隣に古代寺院が存在したことは明らかといえます。瓦や水瓶などは、銅鋺と同様に仏教文化の広がりを示す遺物ともいえます。この古代寺院は、評を治めた豪族が古墳の代わりに建立した氏寺だったと考えられ、今後の調査によって発見されることが期待されます。
  • 銅鋺

    大富西山1号墳
    飛鳥時代(7世紀前~中)
  • 須恵器:鉢

    妻木平遺跡
    竪穴建物出土
    奈良時代(8世紀前)
  • 仏教文化の広がりを示す遺物

  • 刀支の木簡

  • 刀支の木簡:表(レプリカ)

    飛鳥池遺跡
    飛鳥時代(7世紀後)
    恵那市教育委員会蔵
  • 刀支の木簡:裏(レプリカ)

    飛鳥池遺跡
    飛鳥時代(7世紀後)
    恵那市教育委員会蔵
  • 須恵器:水瓶、瓦

    隠居山須恵器窯(新段階)
    飛鳥~奈良時代
    (7世紀末~8世紀初)

須恵器窯と美濃焼の始まり

東美濃地域で最古の窯は、乙塚古墳の被葬者が導入に関わったと考えられる隠居山須恵器窯と清安寺須恵器窯とされています。器を窯で焼く技術が須恵器に始まり現在まで受け継がれていることから、この須恵器窯を美濃焼の始まりとしています。隠居山および清安寺須恵器窯は、7世紀前半に畿内系の技術を導入して始まり、古墳の副葬品などが生産されました。乙塚古墳出土の鳥鈕蓋や焼成不足の製品は、ここで焼かれた可能性があります。しばらく後、7世紀末~8世紀初め頃になると隠居山須恵器窯では尾張の猿投窯から技術を導入し、役所と寺院向けの製品が生産されました。

  • 隠居山須恵器窯(遠景)

  • 隠居山須恵器窯(窯体)

  • 清安寺須恵器窯の遺物①

    須恵器:坏蓋・身
    清安寺須恵器窯
    飛鳥時代(7世紀前)
  • 清安寺須恵器窯の遺物②

    須恵器:高坏・長頸壺・短頸壺・甕
    清安寺須恵器窯
    飛鳥時代(7世紀前)
  • 隠居山須恵器窯の遺物①

    須恵器:坏身・高坏
    隠居山須恵器窯(古段階)
    飛鳥時代(7世紀前)
  • 須恵器:坏身

    隠居山須恵器窯(古段階)
    飛鳥時代(7世紀前)
  • 隠居山須恵器窯の遺物②

    須恵器:坏蓋・無台付・甕・瓶類
    隠居山須恵器窯(新段階)
    飛鳥~奈良時代
    (7世紀末~8世紀初)
  • 隠居山須恵器窯の遺物③

    平瓦・丸瓦
    隠居山須恵器窯(新段階)
    飛鳥~奈良時代
    (7世紀末~8世紀初)
  • 平瓦(格子たたき目)

    隠居山須恵器窯(新段階)
    飛鳥~奈良時代
    (7世紀末~8世紀初)

【凡例】

このページは、土岐市美濃陶磁歴史館企画展「史跡整備完了記念~乙塚古墳とその時代~」のバーチャル展覧会です。

会期:2023年3月4日(土)~6月4日(日)

 

  • 解説文の執筆は当館学芸員が行いました。
  • 所蔵館の明記がない展示品は全て当館の所蔵品です。
  • 展覧会リーフレット、および下記の発掘調査報告書については、「資料ダウンロード」よりダウンロードしてご利用いただけます。
      • 史跡乙塚古墳附段尻巻古墳発掘調査報告書-第5・第6次-
      • 史跡乙塚古墳附段尻巻古墳第7~9次発掘調査報告書
      • 妻木平遺跡発掘調査報告書(第1分冊 遺構編)
      • 妻木平遺跡発掘調査報告書(第2分冊 遺物・自然科学分析・考察編)
      • 平成28~30年度土岐市市内遺跡発掘調査報告書

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